父は別段反抗することもなく引き渡したという。根拠なんてないが恐らくなんの感情もなかったのだろう。ずずさんが去り際に離婚届を突き出しても事務的に捺印したらしい。
後部座席から振り返り三日間過ごしたマンションが遠くなっていくのを覚えている。とても怖かった時間だったけどお兄ちゃんが最後に「良かったね」と言ってくれたのが嬉しかった。
父方の親族からの話では父は僕ら二人を施設に入れるつもりだったらしい。お兄ちゃんがあの時言おうとしたことはこのことだったのだろう。ずずさんが迎えに来るのが少し遅かったらと考えると今でもちょっとゾッとする。
それからすぐに部屋を片付けてしおちゃんを含めた四人で一宮市のずずさんの実家に引っ越すこととなった。日にちは十二月二八日の夜七時。ずずさんにとっては二〇歳から八年間の結婚生活を、僕にとっては四年と数週間を過ごしたたくさんの思い出がつまった生家から離れることとなった。
それは半ば夜逃げをするかのように。誰とも別れの挨拶をすることもなく。
現段階での唯一の治療法がずずさんにとってはとてもリスクが高いこと、しない場合の命の猶予を告げられた翌日に僕とずずさんが最初にしたことは他の医者に行くことや生きるための手段を模索することでもなくお墓についてだった。
それは以前から言っていたずずさんの願いを叶えるため。僕にとっては姉と妹。ずずさんにとっては二人の娘と天国で一緒に過ごせるように。
「うーん、うちとしてはお墓を移すのには問題もないのですがどうしてもお兄様の許可が必要ですね。できますか?」
数年前に代替わりをした評判の良い大柄な若住職が困った顔で微笑む。長い付き合いでうちの事情を知っているので話が早い。住職のご自宅の和室に通された僕とずずさんも出されたお茶くらい渋い苦笑いを浮かべる。
「連絡は僕がします」
「では永代供養も含めてもう一度お考えください」
若住職が丁寧に頭を下げて僕らを玄関まで見送ってくださった。先代から引き継いだ後に始まった本堂の大規模な工事を横目に二人で敷地内にあるお墓まで歩く。墓前に水を注ぎ手を合わせる。墓石に刻まれた先祖達の名前。
後ろから追っていくと祖父母の前に二人の童女の名前が並ぶ。次女のさっちゃんと三女のしおちゃんだ。僕より二歳上のさっちゃんは生後一〇ヶ月で天国に行ってしまったので僕は会ったことがない。
雪のように真っ白な肌でとても美人だったと誰もが言う。遺影を見ても美人なのがよく分かる。