とっくに日付が変わっていた。寂しさは記憶の深いところに沈殿して、そこでしんとした冷たい輝きを放っている。闇の中に夜明けの明るさが潜んでいる。夜は短い。もう二、三時間もすれば夜明けの緞帳がゆっくりと上がるだろう。

九月になった。いつもより広告紙が分厚くて、少し早い時間からスタートすることにした。空気はからりとして道は蛍光灯のようにまばゆく照り返している。

見慣れた家のポストの前に人影が見えた。「ユモレスク」の家だ。タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ、タッタラッタ、頭の中で、軽く舌を鳴らすように「ユモレスク」のリズムとメロディを奏でる。

その家の住人らしき老人が杖を手に持ち、よろよろと道に出て来た。月子は小さな声で、「おはようございます」と言った。

老人の耳に届いただろうか。作業のマニュアルにはないが、住民の姿を見かけたときは微かな会釈をし、近距離で出くわした場合は声を出して挨拶することにしている。

警戒されないための立ち振る舞いだ。ポストに投函してから老人を追い越すと後ろから声がした。

「ここに入れるんじゃない」

振り返ると、「ユモレスク」の家の老人が震える手でポストを指さしている。

「申し訳ありません。回収させていただきます」

振り向いて、ポストに近づくと、

「触るんじゃない!」 

「でも。回収だけさせてください」

「触るなー!」

老人の声が次第に大きくなる。老人は月子との距離を縮めようと近づいてくる。