第2章 充実したアメリカ生活
―息子達の学校生活、夫の仕事と私達の生活、社交ダンスとの出会いからアルゼンチンタンゴへ
私達家族の住んだラフィエット市―1987年8月~1991年7月
日本では家族揃って自転車で行動していました。保夫さんはアメリカで免許を取り初めて運転をすることになりました。保夫さんは渡米以来アメリカの『Business Week』を、熱心に赤線を引きながら、暇を見つけては読み込んでいました。彼の人並外れた英語力と努力と勇気が、アメリカ生活では不可欠だったと思います。
渡米約2年後の『おやぎょう』の機関紙に掲載された、「息子達とのふれあい」と題した保夫さんのエッセイを転載します。
(『おやぎょう』1989年6月1日発行36号より)
息子達とのふれあい―1989年6月1日
私達がラフィエットの町に居を構えて1年9か月になる。この町はサンフランシスコシスコの東約40キロメートルにあり、白人中心の緑豊かな住宅地で、日本人はほとんど住んでいない。我が家の息子達(長男12歳、次男7歳)が通う小学校と中学校では、日本人転校生の受け入れは今回が初めてとか。
限られた米国滞在を白人社会のまっただ中で体験してみようというのが、この町を選んだ動機だった。何せ隣近所が皆白人家庭の町なので、我が家の家族全員が短期間に急激な現地適応を迫られることになった。
妻も慣れるまでに苦労があったが、息子達は更に大変だった。英語で話しかけられるのを怖がり、外出を嫌がったり、毎日派手な兄弟げんかが絶えなかったり、次男が軽い登校拒否になったりと、次から次に問題が発生し、妻ともども振り回される毎日だった。
そんな状態が毎日続くわけだから、親の方もイライラが募り、子どもの面倒を見るどころの心境ではなくなる。
海外生活とは何としんどいものか。しかし考えてみれば私達は恵まれている方で、私達とは比較にならないほど困難な状況の中で海外生活をしている人達も大勢いる。
ましてやアメリカの中でも有数の自然環境に恵まれた地域であり、しかも親切な近所の人達と共に生活しているわけだから、贅沢は言えない。