第一章 ナイロビ
その二 ドタバタ
「マツさん、あそこには……いまは一人で?」唯井も何度も泊まった沿線の一戸建だ。
「そうだねぇ。もう散らかりほうだいさ」
マツさんはそぼ降る雨のように、過去を思い出しながらポツポツと話をした。
「君は?……いま証券会社だっけ?」
「ええ、まあ……なんとか……」
「そう、それはよかった」
「やっと三年目に」
唯井は今の会社に転職する二年ほど前、三十歳で司法試験をあきらめたのを機に、高収入をうたう怪しげな不動産会社に自ら飛び込んだことがある。
そのときの精神状態は、あきらめた悔しさと人生を無駄にしたという焦りと、「どうにでもなれ」という開き直りが、複雑に混じり合わさっていたのだろう。おまけに、厳しい試験をやっていたから「なんでもできる」という慢心も。
案の定その会社は、ワンルームマンションの販売で急成長していたが、入ってみて詐欺と脅しスレスレで売りつける先と分かった。いまでもしみのように記憶に残っているのは、元ホストの社員のうすら笑いと、社長のヤクザまがいの目つきだった。
できなければ借金となりかねないノルマに辞めることもできず精神を病む寸前の、いやすでに病んでいた二年間だった。唯井の父親は「もう放っておけ」と、見て見ぬふりだったが、姉に説得され母親が長兄のオジに泣きついた。
警察OBのオジはじかに社長と会って脱会ともいうべき話を付け、さらに方々にツテを探し頭を下げて、今の証券会社を世話してくれた。
「あれはなによりさ」
「ええ、もうおふくろがよけいな心配を……」
「でも、ほんとうに……今の会社で……良かったのかい?」
あの怪しげな会社に入る前には、新橋のマツさんのところに手伝いと称してよく遊びに行った。塾のアルバイトをしながら司法試験を続けていたのだが、そのいい気分転換だった。
さほど広くない事務所で社員は四人ほど、みんな外へ出ると遅くまで帰ってこない。もう十年も前のことだ。そういえば、「あいかわらず、貧乏ひまなしだ」とぼやくマツさんの後ろに束ねた髪の毛も、すっかり短くなった。
「いま、だれかいい人はいるの」
マツさんがふと尋ねた。唯井は、前にも同じことを聞かれたなと思いつつも、あまり興味のないことには大雑把になるマツさんらしいと飲み込んで、あたかも初めて打ち明けるような口ぶりで答えた。