「それが、まえから付き合ってる娘(こ)がいまして」名前を入沢深月(いりさわみづき)といい、バイト先の塾で知り合い、もう三十の手前だから娘(こ)というわけではない。
「君はまだ、三十代か」マツさんはもう一度「いいねぇ」とため息をついた。
マツさんの会社はイベントの運営のかたわら、取引先の広告の取次と旅行代理店もやっていた。イベントといっても地方都市の「街おこし」の企画や、企業の研修旅行など小ぶりなものだが、ときには大手飲料メーカーの販売キャンペーンも舞い込むことがあった。
本人は内緒にしているが、出版社やマスコミが一般人むけに主催する旅や歴史、それに宗教や美術といった類いの企画を、自分もやってみたいという夢をもっている。唯井はそのとき本題の離婚のほうをどう切り出すかに神経を取られ、半分上の空になっていた。
「いまの会社で……うまくすると海外旅行かも」
「海外。へぇー、なんなのそれ」
「会社が入っている団体、毎年視察と称して旅行があるんですよ」
「そう。団体って……株屋さんの?」
「いえ、本業の方じゃなくて……防犯の方の。警察と親しい」
いまの仕事はもっぱらヘビークレーマーの客や、更にやっかいな先を相手にする。総会屋や会社ゴロ、それに暴力団といった連中だ。ときには出向いて直接交渉をすることも。だから皮肉にも、怪しげな二年間の経験が仕事に一役買っていた。
「おおぜい行くの?」
「去年だと、百社、百人ちょっとくらいかな」
「ふーん」
「で、来年はお前の番だっていう話で……」これが今回のアフリカ旅行の発端だった。本当はこのとき唯井がよく見ていれば、マツさんのとろんとした目が一瞬大きく光っていたはずだ。脳神経科学でいう神経細胞のスパイク、つまり電気発火の発生だ。
お互い、胸のわだかまりをいつ言い出そうか? と会話がさらに途切れがちになり、まわりの席も少しずつ帰りだし、店員がガチャガチャと器を片づけ始めた頃、「あのね……」とマツさんから本題の口火が切られた。
「ほんとは時季夫(ときお)君も急だと……ね。まあ酔う前に、言っとくとね」割とはっきりとした口調だった。
「悪いのはわしの方で、あいつは、お姉さんは悪くはない」
マツさんの仕事柄、外で飲むのはしょっちゅうで休日なども在ってなかった。唯井の知る限りそれを苦にするような姉ではない。姉は百貨店の外商部でながく営業のサポートをしていた。
【前回の記事を読む】アフリカ最大級のスラムにてテロの視察中、「もっといいのがある」そう言われて奥のほそい路地へ手を引かれていく。
【イチオシ記事】あの人は私を磔にして喜んでいた。私もそれをされて喜んでいた。初めて体を滅茶苦茶にされたときのように、体の奥底がさっきよりも熱くなった。
【注目記事】急激に進行する病状。1時間前まで自力でベッドに移れていたのに、両腕はゴムのように手応えがなくなってしまった。