いずれにしても、前期高齢者、後期高齢者と分類されるころになると、病気と無縁ではいられない。身体のいろいろな不具合とうまく付き合いながら、しぶとく遊ぶのが肝要であるが、患っている病気の軽重に応じて、その人の気持ちの軽重も違ってくる。
やはり自分の生死にかかわるような病状であれば、受け入れがたい死を身近に感じて、どこに持って行きようもないいたたまれないような複雑な気持ちで過ごさざるを得ないのだろう。
そして、ʻぼちぼちʼではなくʻいよいよʼかなと感じられるころまでには、何故自分がこの理不尽を受け入れなければならないのかという怒りに似た苦しみに、ひとり耐え忍ばなければならない。
しかし、人間は本当の痛みや苦しみにそう長くは耐えられないから、いつかは、自分の今の状況を受け入れるように気の持ち方に折り合いをつける。そのようなときに、今まで見えなかったことが見えるようになるのであろうし、平静な気持ちで死と対峙できるのかもしれない。
ʻぼちぼちʼを感じるまでもなく訪れる突然の死と、死と十分に向き合う死は、どちらがいいのだろうか。勿論その中間もあるし、こっちがいいと選べるものではないけれど、ʻぼちぼちʼを意識し始める私たちの年代は、それぞれの「行く末」を見通す先に、ぼんやりと自分の死に様も見ているように思う。
それには、交通事故とかの突発的な死ではなく、親が何歳のとき脳卒中で死んだとか、親戚にガンで亡くなる方が多いとかの遺伝的なことが、大いに影響する。そのイメージした死に様に向けて、良し悪し好き嫌いとは別に、ある種の諦念が心の中で育ってくるものである。
話は飛ぶが、テロメアというのをご存じであろうか。遺伝情報をすべて包含した染色体の両端にシッポのようについているモノである。遺伝情報を含まないから役割が分からないでいたが、科学の進歩のおかげで、このテロメアなる染色体のシッポが人間の寿命を左右することが分かった。
テロメアの長さで細胞分裂の回数が変わるという。細胞分裂の数が多いと、それだけ若返るのだから長寿になる。それこそʻ命の回数券ʼとも言うらしい。そのうち、テロメアを継ぎ足す遺伝子手術や、毛生え薬のようにテロメアを伸ばす薬が出てくるかもしれない。
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