光がE=mc2の例外扱いになる理由を、私自身考えてみないでもない。一番ありそうなことは、相対論において光は特別な存在である、以上証明終わり、というものだ。
まあそれはさすがに論外なので、例えば光の特別さとは、明らかに光速度であることなのだから、そこから合理的に導く手段はないか。光速度においてのみ、速度が直接エネルギーに変換され、質量がゼロでもE=mc2が満たされる、などとか。
この式が言っているのはmがゼロならEもゼロであるということだが、光に限ってはmにcを代入することが許される、すると2乗されているcの1つが消せるので(?)光のエネルギーはcであるという結論になる……何となく完璧?
もちろん私が考えるということは、相対論支持者の頭の中でいかなる処理が遂行されているかを推理することにしかなりようがないので、純粋に考えることとはまた違った難しさがある。ぜひとも支持者の見解を聞いてみたいものである。
光子が例外であることを納得のゆく理論で示さない限り、光子はE=mc2の明確な反証として残りつづける。それを指摘することが不勉強の証であるなどとは、あまりにも常軌を逸したたわごとと言うべきだろう。それは真っ白な白鳥を指さして、「すべての白鳥が黒いことが、あの白鳥で証明された」と言い張るようなものなのだ。
いささか寄り道が過ぎた。私は、質量が増えるということを単純に問題にしているのではない。質量が増えるとする視点が、1つではなく本当は無数にあるということが重大な欠陥なのだ。
双子のパラドックスという有名なパズルがある。それを検討することは後回しにして、ここではそれが兄と弟、たった2つの視点で語られていることに注意を喚起しておきたい。相対論は常にこの語り方をする。列車の内外の人、縮む運動体を外から見る人と内部の人。
しかし実は1対1の関係とみなすからパラドックスのように見えるのであって、1対無限であることを理解すれば、「1対1」のどちらかの1は全く釣り合わない1/∞であることが明らかになるのだ。