「お前、何かやってるだろう」
ゆらりと立ち上がったネクタイ男が、眼前に迫った。啞然としていると、純也がいつもの調子で間に割って入った。
「まあまあ、ちょっと落ち着きませんか」
男より十センチほど長身の純也が、見下ろす格好で仲裁に入る。そのことが癇に障ったのか、男はただでさえ赤い顔をさらに紅潮させた。
「うるさい! お前とこいつで、俺を毟(むし)る気だろ。見ろ、ここに座った途端このざまだ」
別のゲームで大勝ちしたらしく、男の手元には高額のチップが景気よく積まれていた。
しかし、バカラを続けるほどにチップのビル群は溶けていき、今は庶民的な賃貸アパートにまで成り下がっている。代わって高層ビルを打ち立てたのは、隣に座っている純也だった。男から見ると、純也が自分の財を掠め取ったように感じるのだろう。
「バカラにお客様同士の駆け引きはありません。八つ当たりはやめてください」こういう状況に慣れているのか、世理は普段のたどたどしさを感じさせない滑らかな口調で言い放った。
「知らないと思ってんのか? ディーラーのお前だって、イカサマ野郎の仲間のくせに。お前ら三人が仲よく話しているところを見たぞ」
殺伐とした空気が広がり、バカラ台の周りにはすぐに人だかりができた。
「当店に不正は一切ありません。お客様の不正行為も、店内カメラで逐一チェックしています。それにもし私が不正を仕込むなら、お金がなさそうな若者なんて使いません。もっと目立たない、裕福に見える紳士を用意します」
世理の啖呵に何一つ反論できないネクタイ男は、押し黙ったまま全身をぶるぶると震わせている。年齢は三十代前半くらいだろうか。酒が入っているとはいえ、いい大人が幼子のように癇癪を起こす姿はひどく醜く哀れだった。
どこかでグラスが割れる音がした。店中の視線が一斉に、音のほうへ吸い寄せられる。次の瞬間、国生の身体が宙に浮いた。グラスの音に気を取られていたため、踏ん張るどころか受け身を取ることもできない。
そのまま仰向けに倒れ込み、背中を強(したた)か打ちつける。鳩尾(みぞおち)に鈍重な不快感が広がり、嫌な苦味が口内に広がった。
慌てて瞼を開くと、前方へ突き出した片足を引っ込めるネクタイ男が見えた。そこで初めて、男の前足が自分を蹴り倒したことを知った。
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次回更新は2月18日(火)、20時の予定です。
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