壱─嘉靖十年、漁覇翁(イーバーウェン)のもとに投じ、初めて曹洛瑩(ツァオルオイン)にまみえるの事

(4)

「達者でいたか。あれから、どうしていた」

「麵売りにまわされました」

「あれは重労働だからな。果物屋なら包丁で切ってさしだすだけだが、麵売りは湯(スープ)やら麵やら、下準備も多いし、どんぶり洗いも大変だろう。今朝は、どうした」

「いつも、少年が豕(ぶた)の骨をとどけてくれるんですが、今日にかぎっては、来なかったのです。それで、自分で取りに来ました」

「麵づくりは、やったことがあったのか?」

「いえ、まったくのはじめてです。一日だけ、徐繍(シュイシウ)という人に習いました」

「ひょろっと背の高いヤツか?」

「そうです」

「それで、そいつは、どうなった?」

「見かけなくなりました」

「あいやー、やっぱり、そうか」

「何が、そうなんです?」

武骨な指が、私にむけられた。

「代わりが来たから、消されたんだよ」

脳裡にひらめいたのは、目に泪を浮かべた、徐繍(シュイシウ)の顔であった。

「消されたって……」

「殺されたんだよ。ほかにどんな意味がある?」

いや、ちょっと、待ってくれ。この男は、どこまで信用していいのか?

「おまえは来たばっかりだから、知らないままでいるほうがいいかとも思ったが、やっぱり。教えておこう。この先、会って話をする機会はないかもしれんし、おれも、いつ消されるかわからんからな。この畜舎にはもうひとり、男が働いていた。そいつも、消された。おまえが来るちょっと前のことだ。ウミヘビ女のところに下宿していた」

そういえば、管姨(クァンイー)は言っていた。あんたは運がいい。ここに住んでた男がやめちまって、空いたばっかりだと。私が来るまえ、あの部屋に住んでいたのは、さては、羊七(ヤンチー)の相方だったのか?

「そいつも黒戸(ヘイフー)の宦官だった。最初は宮廷に仕えていたんだ。皇帝が代がわりして、宦官は大幅に処分された。その中のひとりだったのさ。ほうぼう食い扶持をさがしたずねて、漁門にやって来た。漁覇翁(イーバーウェン)は、もともと宦官だろう? それが商売で成功しているのを見て、あこがれたんだとよ。しばらくの間は、よろこび勇んではたらいていたが、実態がわかって来るうちに、だんだん漁門に失望しだした、それからまもなく、消された」

「それ、本当なんですか?」

「ヤツの死体をひきあげたのは、このおれだからな。川に、プカプカ浮いてたんだ。連中は、働き手のことなど何も考えちゃいねえ。自分たちにとって利用価値があるかどうか、それだけだ。生かすも殺すも自由自在だし、殺しても、代わりなんざいくらでもいると思ってる」

「でも、ちゃんと月給をもらえるじゃないですか。屋台街の世話人が言ってましたよ、うらやましい話だって」

「うーん」

羊七( ヤンチー)は、いったん話をうち切って、飼葉桶に餌をつぎたした。

「いいか叙達(シュター)、ここには外部に知られちゃならねえ秘密がある。考えてみろ、まっとうな商売を四、五年つづけただけで、町がまるごと、土地も建物も、手に入ると思うか? こんな大都会でだぜ? ウラがあるんだよ、ウラが。そして、そっちのほうが、表(おもて)よりずっと大きい」

「………」

「やつらは、従業員を監視している。飛蝗(バッタ)を使ってな。なんにも考えてねえ、無邪気なやつなら問題ないが、しばらくここで働いて、やつらの秘密に気づいたら、とつぜん危険人物あつかいってわけだ。すべてを知ったうえで、それでも漁門に忠誠を誓えば、湯祥恩(タンシィアンエン)や段惇敬(トゥアンドゥンジン)みたいな幹部になれるのかもしらんが、そうでなければ、消される。徐繍(シュイシウ)も、それでやられたんだろう」

「秘密って……」

「それを知れば、おまえの身に危険がおよぶ。おれも、何度かそういうことがあった。そのうち、防ぎきれなくなるかもしれん」

「何年、ここで、仕事を?」

「十年だ」

「やめようと思わなかったんですか?」

「いつでもやめてやるぜ」

羊七(ヤンチー)は、ぺッと唾を吐いた。

「やめられるんだったらな。だが、もうおれは危険分子 だ。やつらはそう思ってる。やめさせずに手許に置いといて、適当な時に処分ってえハラだ」

「………」

「おまえ、おれに会ってすぐに、屋台曳きにまわされたろう?」

「……はい」

「おれに近づけたくなかったんだよ。おれは危険分子だからな。いっしょに仕事をやらせれば、よけいなことを吹き込まれて、めんどうなことになると思ったんじゃねえの?」

よけいなことって、いったい何なんだ?

羊七(ヤンチー)は、それ以上は、しゃべろうとしなかった。

しばし、沈黙が、ながれた――。