**あなたの血となった主イエスが、本来行うべき霊的戦いを、あなたの身体で実行してほしいと願っています(「マルコ」16:16~19節)。

とすれば、主イエスを内在させ共生しているクリスチャンが、「私は罪深い取るに足りないみじめな者です」とは、口が裂けても言える筈がないと分かります。この言葉は救いを受け取っていないことの告白だからです。

しかしほとんどの日本人はこの原理原則が分かっておらず、ましてや常識として持ち合わせていません。それは「十字架による罪の赦しと贖い」がキリスト教だと思い込まされている霊的幼児だからです。 ここでは「第1の義」と「第3の義」とを区別するために、この表現を用いざるを得ません。決して個人の信仰レベルの批判ではありません。

そして「血の契約」を一般的な契約と同一視しているから、その義務を他人のためにすることと取り違えてしまっています。

この教理の事実を明らかにしましょう。

旧約時代に与えられていた、「厳守すべき義務だった律法」は、この血の契約によって、今度は「自分から進んで行う喜びのための行為」に変わったのです。この変化によって、律法が律法として存在する意味を失ったことになります。

しかし、律法の意義(神様の意志)は血の契約によってクリスチャンの心に生き続けているから、これが新約時代に「律法が終了した」ことであり、また、「律法が全うされた(存続する)」と判断する根拠なのです。

    

「マタイ」5:17「私が律法や預言者を滅ぼすために来たとは思ってはならない。私は滅ぼすために来たのではなく、成就するために来たのです。

「ルカ」16:16「律法と預言者はヨハネまででした。そのときから、神の国が宣べ伝えられ、皆がその中に押し入ろうとしています。

「ローマ」10:4 キリストは、[信じるすべての人にとっての義]のための、律法

の終わりです(著者注:書かれた文字によるのではなく、自発的な愛の行動となるから)。

「ガラテ」5:14 なぜなら、すべての律法は、この一言で成就するからです。「あなたは隣人をあなた自身のように愛さなければならない」

「ヤコブ」2:8 聖書に従って、「あなたは隣人をあなた自身のように愛さなければならない」という王法を本当に果たしているならば、あなたがたの行いはりっぱです。

    

キリスト教の「新しく生まれ変わった人」とは、その身体に主イエスの血が流れる人であり、主イエスがしてほしいと願うことを、今度は「自分の要求」として「自分が主イエスに成り代わって」実現させる行動をしなければならない人なのです(第3の義の自己認識)。

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