一
湯本は川瀬知数少年が、とても困難な岐路に立たされていると思った。選択を間違えば湯本が何例も見てきた子供のように、廃人のような将来に進むことにもなる。
職務からも母性本能からも、子供たちには希望に向かって歩む道を行ってほしいという願いは強い。職務上縛られているワクと内面の願いの狭間で、湯本は実知に対して曖昧な、お呪(まじな)いのような言葉を伝え、その中に精いっぱいの示唆を込めたのだった。
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「ま、いいでしょう。とにかく一度本人をお連れ下さい。お話から大体の見当はつきますが、診れば明らかです」
実知はまだ縋(すが)るように話しかけようとしたが、草介はきっぱりと制した。
「診ればわかることです。それに患者さんが待っていますから」そう言って草介は部屋を出た。
二
みつる歯科から帰った実知は電灯を点けなくても明るいリビングの椅子で、ぼんやりと天井を仰いだ。今日は雲一つない秋晴れで、こんな日は気分も爽やかだ。陽が広い南面の窓から入り、冷房も暖房もいらない短い穏やかな季節が限りなくいとおしい。
昔はいつもこんな軽い幸せな気分で生活していられた。特別に高くも低くもない夫の給料は安定していて心配はないし、知数が元気だった時期は実知も仕事をしていた。
仕事と言っても結婚式場でオルガンを弾くアルバイトで、新郎新婦の入場の時や讃美歌の伴奏などで、大した負担にもならず、楽しい仕事だった。
「あんなに平和で楽しい生活ばかりしてきた罰なのかしら」
突然知数が学校に行きたくないと言った朝から、想像もできない悪夢の闇に突き落とされたのだ。軽々と生きてきた実知には困難に対する耐性がほとんどない。最悪の危機がいとも簡単に、突然訪れるなどとは想像したことすらない。
学校に行きたくない、と言った日から、知数の状態は坂道を転げ落ちるように悪くなっていった。
顔に吹き出物もでき、蒼白でカサカサの肌になり、虚ろな目が不気味だ。動物のように体を丸めて死んだように寝ているだけで、起こそうとしても返事もしない。「うるさい」と実知の手を払いのけたりもする。
或る日知数のベッドに昼食を運んでいった時だった。「知君、食べなくてはダメよ。弱ってしまうから、食べてね」それを繰り返すと、知数の腕が振られ、実知の顔を強打した。実知はよろめき、支えていたトレーは飛ばされて無惨に床に散らばった。
その上に倒れ伏した実知は、暫く動くこともできなかった。両腕を立て、上体を支えると、涙が溢れてきた。母親の嗚咽(おえつ)にも知数は反応を示すことはなかった。
「死ぬしかない」と実知は初めてそう思った。