【前回の記事を読む】大地震、火災、ミサイル攻撃などの有事の際に顧客から預かっている金融資産を守るミッションにアサインされたのは…
二
拓也はメンバーの片田英一と柳井浩二よりひと足先に帰宅の途についた。四月も半ばになり少しずつ日が長くなりつつある。
早春の冷たい空気が徐々に暖かくなって行くこの時季の時間の流れが、拓也は堪らなく好きだ。暖かな空気が拓也の心を平穏にしていく。通勤路に咲いている真っ赤な久留米つつじも拓也の心を和ませた。
世間はつい先日までソメイヨシノに酔いしれていたはずなのに、謙虚な姿で静かに咲いている久留米つつじは微かに感じている単身赴任の寂しさや切なさを忘れさせてくれるのであった。
視線を反対側に向けると豪華客船が堂々と停泊中で、東京にいる時には絶対にお目に掛かれないものがここでは見られると感心した。
「世界一周か、夢があっていいな。俺も爺さんになったら、婆さんと一緒に世界一周旅行なんて行けるだろうか……」と、拓也は呟きながら今夜の夕飯は何にしようかとあれこれ思いを巡らせ、ゆっくりとマンションへ向かった。
オートロックのエントランスから入り、ポストを確認。薄暗い廊下を通って小さなエレベーターに乗り五〇八号室に着く。
風呂上がりに晩酌をしながら夕飯を食べるのが東京にいる時からのルーティンである。湯船にお湯を張りゆっくりと入りたい気持ちもあるが、一人暮らしでやらなければならないことが多く、時間に余裕が持てないのでここに来てからは湯船に浸からずシャワーのみで済ませている。
手短にシャワーを浴びた後、近くのスーパーに弁当でも買いに行こうと部屋を出た。物件を選ぶ時の基準の一つにこのスーパーの存在があった。
六十年代〜七十年代の高度経済成長期、日本が賑やかで勢いがあった頃の昭和の雰囲気を漂わせた造りのスーパーだが単身赴任者が生活するには困らない程度のものは全て揃っているようだし、レジでは八十歳前後の老婆が元気に対応している姿が印象的だった。
人生百年時代というフレーズがめっきり流行ってきた昨今だが、エネルギッシュな高齢者を見るとやはり元気が出る。
出来たての弁当をあれこれ見て回ったが、なぜか今ひとつ食欲をそそるものがなかったので、スーパーでの弁当を諦め、出口のすぐそばにある『十番』でちゃんぽんでも食べようと外に出た。
しかし、これもなぜか「今日はいっか……」と思い、仕方なく何も考えずにスーパー周辺を歩いていると視線の左側に寿司屋の看板がひっそりと佇んでいるのが見えた。
小さな入り口の前にはカブが停められており、白いヘルメットが黒い前籠の中に収められている。荷台には『寿司厚』と赤字で大きく書かれた出前用の木製の箱が積まれている。
着任してからずっと脂っこいものや高カロリーのものを食べていたので、「たまには魚を食べないと体に良くないな」と、『寿司厚』の暖簾をくぐることにした。
右側に五人くらい座れるカウンター、左側にはお座敷。地元の新聞が無造作に置かれてある。正面には小さなテレビが置いてあり、NHKの七時のニュースが流れていた。
常連さんであろうか、ピンク色のシャツを着た六十代半ばくらいの女性が持ち帰り用の寿司弁当の出来上がりをお座席で待っていた。