一
三月後半にしては桁外れに蒸し暑い日であった。引っ越しの荷物が予定の時間より少し遅れ、午後三時過ぎに新居に到着した。フロア中に埋め尽くされた段ボール箱で足の踏み場がない。湿った空気に息苦しさを感じながらも、来月からの新生活に拓也の心は充実していた。
とにかく早く片付けて今夜はちゃんと寝られるようにしよう。赴任前に注文していたベッドの枠の部分が届くのは五日後の水曜日である。それまでは今日届いたマットを直接フロアに敷いて寝るのだ。少しばかりの辛抱である。
部屋は十分に生活できるような状態ではなかったが、拓也の心は初めての単身赴任生活にあたかも小学生が経験する遠足前夜のような気持ちであった。東京からの引っ越し準備に直子が色々と骨を折り、こまごまとしたものを折目正しく揃えてくれた。外食ばかりでは栄養が偏り健康を害すると気を回し、簡単な自炊ができるだけの道具を揃えてくれた。
トラックの到着を待っている間、マンションの周囲を軽く探索し、直線で五十メートルほどの所に町中華の店を見つけた。昭和を思わせる木造の店構え。『ちゃんぽん・皿うどん 中華料理 十番』と書かれた薄汚れた暖簾や、油でベトついた真っ黒な換気扇が、以前テレビで見た「きたなシュラン」を連想させ、拓也の胃袋を刺激した。
今夜は流石に部屋で落ち着いて食事ができる状態ではない。新天地での記念すべき最初の夕飯ということで昭和の雰囲気が漂う『十番』に行くか、それともコンビニ弁当で簡単に済ませるか、あれこれ考えながら手を休めることなく遅くまで荷解き作業に精を出した。
翌日、遅い朝を迎えた拓也は、この地域の総氏神様への参拝を思いついた。秋には例大祭が行われ、全国各地から大勢の観光客が訪れる神社である。新天地での無事と成功を祈って、半ば観光客気分ではあるが、挨拶代わりに訪問することにした。
今日も蒸し暑く、長袖シャツ一枚で汗ばむ陽気であった。40ct&525 BY TAKEO KIKUCHIの麻100%シャツ。薄いブルーの生地にペイズリー柄が微かに見える。旗艦店での限定販売品だ。