国立公衆衛生院
私は韓国の病院の仕事を拒否して日本に戻って来ました。日本に帰ったら是非、国立公衆衛生院で学びたいと強く思っていました。
国立公衆衛生院は当時、保助看護婦の全国の幹部候補生の養成所のようなところでした。そこに行くには全国の公私の病院、役所等の施設からの推薦状が必要でした。
現在は大学院などたくさん学ぶところがありますが、当時は医療保健看護、助産の公衆衛生的なことを学ぶところはあまりありませんでした。ここでは、一年間ですが給料もボーナスももらって学べるのです。
私は自分探しのために韓国でしばらく時間を過ごしており、日本で助産婦のキャリアを積んでいませんでした。しかし当時助産師の仕事は引く手数多でした。
幸い私の友人が新設された自治医科大学の産婦人科病棟婦長と決まっていたので、私が韓国から帰って来たばかりなのに就職先を紹介してくれたのです。
私は当時、国立公衆衛生院に入ることが第一希望でしたから、就職の時、この病院から国立公衆衛生院に行きたいのですと希望を出しましたが、その時院長の松本清一先生は「今五人待っているのです」と言いました。
五人待っているということは、五年かかるということです。私は自治医科大学を断念し、食べるために東大病院の新生児室の夜勤専門のアルバイトをすることになりました。
そうして数か月たった頃、私の母校の聖母助産婦学院の教務主任のシスターが私に直接会いに来られました。
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