息子達を通して経験したアメリカ生活の中では、一方的に先生や大人(権力者)の話を聞くのではなく、反対意見も含め自分の意見を述べることが、大いに歓迎されています。日本とのとても大きな違いです。
第2章 充実したアメリカ生活
―息子達の学校生活、夫の仕事と私達の生活、社交ダンスとの出会いからアルゼンチンタンゴへ
私達家族の住んだラフィエット市―1987年8月~1991年7月
サンフランシスコ市内からベイブリッジを渡ると、オリンダ市、ラフィエット市、ウォールナット・クリーク市と続きます。中産階級の多い、理想的な環境のため、白人社会と言われています。
保夫さんは、バート(BayAreaRapidTransit)と呼ばれている電車で市内のバンク・オブ・アメリカ本店に通っていました。
本数の少ないバスに乗るために早朝歩いていると、曲がり角で大きな角の生えた鹿に出くわし、その鹿が驚いて後ろに飛び跳ねたことがありました。
新聞には鹿が車のフロントガラスにぶつかったという記事も時々載るような所です。鹿が庭を走り抜けると「侵入された」と騒ぎます。
トントンという音の正体がキツツキだったり、夜遅く犬の餌を食べに来たアライグマとガラス越しににらめっこしたりしました。ネズミのようなしっぽをもったオポッサムやリスに出会うことは珍しくありません。
また、「ハミングバード(ハチドリ)」の餌である赤い水を窓際に吊り下げて、羽をふるわせて餌を吸い取る様子を眺めては心を慰めていました。今まで見たこともない美しい鳥でした。
ある日、侵入したスカンクが、我が家の愛犬キャンディーに驚き、顔に白いねばねばしたものを吹きかけたことがあります。強烈な臭いのするものです。トマトジュースで洗うとよいと聞き、用意して保夫さんの帰りを待っていたら、彼はあきれ返っていました。