第二章 小窓尾根

夏であれば林道に設置されたゲートを抜けて馬場島まで入るタクシーも、深雪の時期は伊折までしか入らない。夜明け前の、除雪されてはいるが凍った林道に、スタッドレスタイヤの噛む音が鈍くなり、除雪の手が途絶えるところでタクシーは止まった。

「はい、着きました」と、多くの登山者を入山口まで運んでいる山里のタクシーらしく、それまでは今年の雪は去年より多いことや、これから年末にかけて沢山の登山者がやって来ることなどをまくし立てていた運転手が座を締めるように言った。そしてバックミラー越しに料金を告げ、ドアを開けた。

「とりあえず払っておきますよ。あとで清算っちゅうことで」と川田は鬼島に言って、財布から一万円札を取り出して運転手に渡し、小銭の釣りを受け取った。

タクシーから外に出ると、厳冬の凍てついた空気にまずは震えた。狭い車内で体を丸めていたために全身の筋肉がこわばっているようで動きがぎこちない。凍りついた車道に滑らぬよう足を引きずりタクシーの後部に回り、トランクから一週間分の装備が詰まったアタックザックと、手提げ鞄を取り出した。トランクを閉めると、タクシーはそそくさと転回し、下界へと走り去った。川田は、人間の息のような白い排気ガスを、しばらく眺めた。

ザックを路肩に置き、冬季用の登攀ウェアに着替える。まず、厳冬期用のブーツを一旦脱ぐ。上半身を包む厳冬期用の防寒下着やミドルウェアは着込んできたが、下半身の下着は身につけておらず、コットンパンツを脱いで素足になると氷点下の凍てつく空気が腿や脛の肌に刺さった。

激しく鳥肌を立てながら厳冬期用のアンダーパンツを穿き、クライミングパンツを穿いてさらに厳冬期用のゴアテックスの生地でできたハードシェルパンツを穿いた。上半身は、これから馬場島まで平坦な林道を延々と歩くことによる体温上昇に備え、ミドルウェアを脱ぎザックにしまい、長袖のシャツ一枚にした。そしたまた、ブーツを履き直した。

  

【前回記事を読む】線香を取り、火をつけて手を合わせる。葬儀の時も同じ遺影だった。屈託なく顔を崩した、おおよそ山屋とは思えない素直な笑顔。

次回更新は12月29日(日)、8時の予定です。

  

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