アパルトヘイト政策の基では、日本人は名誉上の白人
南アフリカ航空は、南アフリカ共和国の国営航空で、当時ヨハネスブルグ-香港間の路線を持っていた。それを東京まで伸ばそうという計画があり、その為二人の日本人のフライトアテンダントを雇ったのだった。
因みにもう一人の日本人フライトアテンダントは、TWA(アメリカのトランス・ワールド・エアーウェイ。2001年にアメリカン航空に吸収合併された)でフライトアテンダントをしていた人で、私と彼女はヨハネスブルグのヒルズボローにある南アフリカ航空が契約している1LDKのアパートに住み、1週間おきにヨハネスブルグ-香港路線を交代で飛んだ。
当時南アフリカは、アパルトヘイト政策をしいており、それに反対する国々からの飛行場使用許可が下りない為、ヨハネスブルグ-香港間の18時間の⾧い飛行時間は、アフリカ大陸沖の島国であるセイシェルズ島での燃料補給ストップで中断されるのみであった。
アパルトヘイト政策の現実は、至るところに見られた。公園の水飲み場やお手洗いは、白人用と有色人種用に分かれていたし、黒人労働者が白人が運転するピックアップトラックの荷台に、まるで家畜のように立ったまま乗せられている光景も数多く見た。
ここで私の頭の中に一つ疑問が生じた。日本人は白人ではない。中国人や韓国人と同じ黄色人種、つまり有色人種である。
それなのに何故南アフリカ航空は、日本人、つまり有色人種を雇用したのだろう? 当時の南アフリカ航空には、清掃員を除いては有色人種はいなかった。
因みに、1990年代の後半、私は、アメリカ農務省の仕事でアメリカの首都ワシントンから南アフリカ航空の飛行機でケープタウン経由でヨハネスブルグに行ったのだが、そのフライトの殆んどのフライトアテンダントは黒人であった。
この私の疑問に答えてくれたのは、当時日立製作所から南アフリカに家族と共に派遣されていた駐在員の内藤さん(仮名)だった。