私が相対論を信じないからこういう疑問が起こるのであって、信じていれば疑問にはならないのだろうか。しかし別の銀河の住人は我が銀河の白色矮星をブラックホールとみる、ということが相対論をまじめに受け止めた結論になるのではないか。

それは、私たちの見ているゾウリムシが、高速移動者にはシロナガスクジラに見えるというのと同じくらい、変な話だ。相対論がこの疑問を無視してよいはずはない。

というのも、それ自体で静止状態、運動状態と決めてしまうことができない、ということが相対論の大きな柱だったはずだからだ。

つまり絶対的な質量や運動量は存在せず、視点との相関関係のみが、これらの量を決める。星の質量が相関関係で決まるということであれば、私には白色矮星と見える当のその星が、当然別の相関関係を持つ観測者にはブラックホールに見えることも認めなければならない。

これが相対論の正しい解釈であって、私が論外のたわごとを垂れ流しているわけではないと思いたいのだが、ことが明白すぎてかえって自信がなくなる。

相対論の支持者たちは速度や歪みの度合い、重さなどといった量的な差だけを取り上げたがるが、世界のすべての局面において、量的な差は質の違いに直結している。私たちの太陽が、とある星系からはベテルギウス並みの重さに見えるとしたら、もうとっくに星としての生涯を終えているはずなのだ。

重く見えているが、事実は現状の太陽の通りである、ということも肯定するのなら、重く見えるということは事実関係ではなく「単にそう見える」という特殊な理論関係であって、重いということから帰結する物理学上の事実は何一つないということもまた認めるしかない。

つまり白色矮星がそこにあるのなら、相対論でそれをどう見るかということは関係なく、軽い星なのだ。

  

【前回の記事を読む】ブラックホールは超大質量の恒星のみが生涯の終わりにたどり着く特殊な天体とされる。

  

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