思いがけないこと
「ごめんなさい。存じ上げなくて……」
妻は日本が、それも特に東京が好きで離れたがらなかった。
海外勤務が多くなっても、一緒に行きたがらなかった。東京で自由に暮らしているのが性に合っているのだろうと思っていたのだが。病気が分かって、ストレスや不満もあったのかと考えるようになった。
がん医療は日々進歩しているから、特に乳がんは早期発見で救えたかもしれない。当時の最善を尽くしたつもりだが転移もあって、うまくゆかなかったと。
田村はさりげなく話題を変えた。
「ぼくは海外も単身赴任だし、学生時代も寮だったから、結構マメなのですよ。ところでさっきはアジアの悪口を言ってしまったけれど、昔のままの風景が残っていたり、子どもたちが純真だったり、良いところもあります。どこか行ってみたいところはありますか」
美智子は首をかしげたまま、横に振った。住んでいるところ以外、行ったことがない。
「シンガポールの夕日は良いな。あなたに見せたいな。最近は子育てを終えた女性たちの姿が海外でも見られるようになった。あなたももう少ししたら時間が取れるでしょう」
「娘は高校生ですから、三、四年したら……私がつなぎを着ているのを知って、かっこいいなんて、生意気なのです」
「ご主人は、転職に賛成してくれましたか」
「―主人は、農業をしに田舎に帰りました」
言ってしまってから、目を上げて田村を見た。二人の視線が止まったままになった。
世間話や仕事の話をしているときは順調だが、プライベートな部分に触れると危うくなる。それほど互いに相手のことを知らなかったし、話すことにためらいもある。
「あなたのことをもっと知らなくてはいけないな……」