第1章 闇の入口
2
部屋を見渡す。積み上げられ、雪崩(なだれ)を起こしている雑誌とソフト、椅子に掛けられたアウターと脱ぎっぱなしの帽子が幾つか床に落ち、チェストからはみ出した服が人間の腕のように垂れている。ケース買いしているドリンクは部屋の片隅で埃を被り、その横に何かわからない玩具が突っ込まれたダンボールがある。
そこから這い出してきた魑魅魍魎(ちみもうりょう)達が至る所を闊歩(かっぽ)しているのだから、もう。机の上は雑多な物で溢れ返り、缶ビールの亡骸が市指定のビニール袋から転げ落ちていた。どのゴミ袋も容量はそこそこで、いい加減出しに行けよ、と僕は渋面を作る。
足で袋を遠ざけていると、一つだけほとんど空っぽのゴミ袋があった。よく見ると中身は布で、どうやら服のようだった。お前が最近買ったばかりの、フィルメランジェのパーカー。それから、ボトムスとインナーも捨てられている。
これ、どうした、と聞こうとして、お前を見る直前。
ほんの一瞬。
そこから血と鼻を突く臭いがした。
ゴミ袋を見やる。
お前の服が死んだ鼠(ねずみ)の塊(かたまり)みたいに固まっている。
ゴミ袋を睨んだ。
それから僕は足音が響くのも構わず窓に近付いてカーテンの合わせを掴み左右に開いた。カーテンレールが揺れながら日光を部屋中に招き入れる。様々な物の陰影がはっきりと浮かび上がり、お前の姿が僕の目に映った。
お前から感じるいつもの熱い気配を少しも感じることが出来ない。ただ椅子に身を預け机に頭を載せているだけの物体に見えた。部屋の主はお前であるはずなのに、今はこの雑多な物達全てに取り囲まれそれらから攻撃を受けている。そうして固く縮こまって沈黙している。
お前の名前を呼ぶ。
こちらを振り返りもしない。
近付いて、その肩に触れようとした。
お前が顔を上げた。
僕は、息を呑んだ。
***
なぶり殺しって知ってるかい?
殴って殺すんじゃないよ。
痛めつけて殺すんだ。
痛めつけるって例えばどうするんだって?
配信は幾らでもあるだろう。
僕は知ってるの。
僕はやったことはないけれど。
3
『地域医療連携のご案内
許しません! 暴言 暴力 迷惑行為! 安心で快適な医療機関を目指します
お知らせ
発熱の症状がみられる方はまず下記お電話番号までご相談ください。』
診察室前の廊下に張り紙にはそう並べられていた。不統一のフォントとフリーイラストで飾られた紙は端が捲(めく)れ多少色あせ劣化が見られる。もう何年もこのまま手が加えられず放置されているのだろう。
休日当番医を探して辿り着いたここは五年前に開業したばかりのクリニックで、内装はホワイトとダークブラウンを基調とした落ち着いたデザインになっていた。インテリアにも凝っているのか、ソファはイタリアのカッシーナを個別に置き、待合室の天井には小さな涙の粒が幾重にも連なって光を宿している。
擽(くすぐ)る程度の音楽が流れる中、藍色のカーディガンを羽織った美人が一人受付に座っていた。
僕の他にも母親に連れられた子供、作業服を着た五十代くらいの男性、スマホから頑なに目を離さない青年がそれぞれソファに尻を沈めている。そして互いのテリトリーを侵さない程度に離れていた。
子供は女の子で、少し茶色がかった髪を耳の横で二つ結びにしている。布地で出来たリボンの髪飾りが耳元を華やかに彩っており、女の子は母親の膝に両手を置いてふっくらとした頬を赤く腫らしていた。フードにボアの付いた花柄の中綿アウターは彼女の体をすっぽり包み込み、幾分大きい気がする。
僕はその母娘を見て、二人は見えない糸で繋がっているような気がした。例えどちらかが一定の距離を離れたとしても、その糸がすぐに張って注意を喚起するのだ。彼女は先ほどからきょろきょろと周囲を見渡しては爪先立ちをしたりして忙(せわ)しないが、決して母親から離れようとしない。
彼女にとってはそれが、今のこの距離が、ピンと張っている状態なのだ。母は娘の顔を見てはいないが、その糸を信じている。命綱だ。
僕はお前の部屋の扉から噴き出した繊維を思い出した。
診察室のドアがスライドする。
ネルシャツの上にブルゾンジャケットを着たお前の姿が見えた(僕も一緒に診察審に入ろうと思ったがお前が許さなかったのだ)。顔半分をプリーツマスクで覆い、右目は眼帯で塞がっている。左目の上は眉尻から鼻梁に掛けてガーゼが当てられホワイトテープで止められており、頭は何重にも包帯が巻かれていた。
相変わらず引き摺る左足はどうなっているのわからなかったが、お前は僕の目なんて見ずに診察室の扉に背を向けて歩き出す。
そうして、「互いのテリトリーを侵さない程度に」離れて、座った。
【前回の記事を読む】死に直面した人間が吐き出すような絶叫に、尋常でない様子の親友を訪ねる。扉が人一人分きっちりと開いて、僕の目の少し下辺り、お前の頭が揺れている。
次回更新は12月30日(月)、20時の予定です。
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