出会い(一三七四年)

「道誉殿の芸能へのご造詣の深さは只事では御座いませんでした。昔の芸人の芸をそれは事細かに覚えておいでで、色々教えて頂きました」

「わしには、バサラの心得を教えてくれたぞ。奴によれば、人は誰でも贅沢が好きだが、誰もが贅沢出来る訳では無い。そこで、贅沢の出来る者はなるべく贅沢をして、他の人にも分け与えてやる義務があるというのだ。

しかも、贅沢するには物の良し悪しが見分けられなければならないから、生易しいものでは無いと。バサラ流に生きる事は奴の人生の美学であった。けちな男は決して人の上に立てない、とも良く言っておった。奴と正反対なのが管領(かんれい)の細川頼之 (ほそかわよりゆき)だ。

あいつは何かと質素倹約と言う。所謂禅の教えだな。わしはそれも一理あると思っておる。細川頼之の事を尊敬しておるのじゃが、バサラの道誉の事も好きじゃった。そちはどちらがいいと思う?」

「さあ、お答え仕兼ねますが、父観阿弥が細川殿派だという事だけは確かで御座います。何しろ常日頃、大酒、女色、賭け事、鶯飼う事罷(まか)り成らぬと申しておりますから」

「何、それは全部道誉の好きな事ではないか。そうか、観阿弥は実は道誉を悪の見本だと思って見ていたのじゃな」

二人は思わず同時に大笑いして顔を見合わせた。世阿弥の今迄の緊張が一気にほぐれた。

「ところで、そちに見せたい物がある。これじゃ、出だしの所を読んでみよ」

「この世は夢の如くに候、ですか。何と美しい文、しかも達筆、どなたがお書きになったのですか」

「これは我が祖父足利尊氏殿の書いた願文じゃ。蔵を整理していたら出て来た。わしも良く、人生は一つの夢ではないかと思う。邯鄲(かんたん)の夢、という話は知っておるだろう、大富豪として五十年も生きて来たと思ったら、貧乏な男の夢に過ぎなかったという話じゃ。わしはこれを読んだ時、わしは今将軍だと思って生きておるが、実は貧乏人の夢に過ぎないかもしれないと思ったものだ」

「それは面白い。確かに上様の人生は庶民にとっては夢の又夢で御座いますから」

「そちだってその年にして京都で知らぬ者とて無い人気役者、皆の夢の人生を生きておるではないか」

「私ども役者など、上様に比べたら無きに等しい者。儚い人気に支えられた因果な稼業に御座います」

「それは将軍とて同じ事よ、盤石に見えていつひっくり返されるか分からない。知っての通り、皇統は南北に分かれておる、鎌倉公方の氏満は明らかにわしに対抗意識を持っておるし、諸国の守護どもは勿論、何かと楯突く延暦寺に興福寺、周り中の者が皆、わしを狙って虎視眈眈としておるわ」