第3章  神様が用いる手段は「血の契約」 

ここで横道にそれますが、「水のバプテスマ」を聖礼典としていることの間違いを述べます。「生まれ変わり」の本質は、「今までの自分」という人格が「死んでいなくなり」、「救い=[天の権威を行使できる立場]を得た新しい人格」になることですが、この霊的変化は、「水のバプテスマ(悔い改め)」では得られないからです。

「生まれ変わった」ことの根拠は、「イエス・キリストとの血の契約」によって、自分の身体の中に「イエス・キリストの血が混じって流れる」霊的身体になったからであり、それが「古い人は死んで(正しくは生きていても存在しなくなる)」「そして新しい人格は〔主イエス/私〕という、〔天国に国籍を持つ者〕となる論理とともに、キリスト教の真理なのです。

しかしパプテスマのヨハネが行った「水のバプテスマ」は、「悔い改め」が目的でした。そして水をくぐるという行為によって成し遂げられた実態は、「生まれ変わった」ことではないのです。その人の自意識の中で「罪」の部分がなくなっただけであり、その人自身の〔自我/存在〕がなくなったと自覚できるものではありません。

あくまで自分は「悔い改めて」〔清く改まった自分〕として認識するのです。

「死んで生まれ変わることの仮想体験」としては、存在理由があるでしょうが、その人の「イエスを信じて生まれ変わる信仰」の根拠にはなり得ないのです。

だから「水のバプテスマ」で「生まれ変わって信仰者になった」と捉えることが、正しくないのです。