一方「血の契約」では、その契約を交わした2人の元々の人格は、それぞれに互いの血が混じり合って流れる「第3の人格」同士になるのだから、契約を交わす前の2人は「契約上存在しなくなった」のです。
この論理的正当性によって、血の契約者は「第3の人格に生まれ変わる」ことが当たり前の事実として認識できるし、そのように行動しなければならない義務が生じるのです。
そうすると、聖書が「古い人は死んで新しく生まれ変わる」ことを、多くの書で教えているのは「水のバプテスマ」ではなく、「血の契約による霊の立場の変化」であるというのが明確にされてきます。
だから、自分の信仰の根拠を「水のバプテスマです」と言っても、それは霊的に正しくないパラプトーマ(間違ったことを正しいと思い込んでいる過ち)であり、サタンに攻撃の足掛かりを与えてしまうのです。
本来なら、「ローマ」10:9~10節の信仰告白で救われた時、「イエスの名によるバプテスマ」を受けるのですが、日本では教会そのものが「水のバプテスマ」が信仰公認だと誤解していて、さらに同時に「聖霊のバプテスマ」を受けられるとして、洗礼式を行っています。
水のバプテスマは、割礼を受けたユダヤ人が悔い改めるためのものであって、生まれ変わりではないのに、2000年来のしきたりとして、教会が「その個人の信仰を公認する儀式」にすり変わってしまい、そして教会員になるための手続きと化しています。
この事実を霊的に解析すると、日本人が必要とするのは、[原罪が赦されて「第1の義」になっていることを知らない]という、[知識のなさを悔い改める]ことです。
この意味ならば、「水のバプテスマ」の存在が正当となります。「信じて救われたこと・第2の義」の意義を、「霊的な格差として論理的に正しく理解できる」からです。
しかしあくまで、「水のバプテスマ」は「悔い改め」だけの結果であり、「信じて救われる」ことではないのをしっかり区別しなければなりません。さらに言うなら、新約聖書では異邦人に「水のバプテスマ」を要求していないのです。