当時アジアの小国の一つであった日本が、日清戦争に続き、日露戦争に勝利し、世界を驚かせた。そんな日本に寄るべし、頼るべしと清朝政府は多くの留学生を日本に派遣した。一時は一万人以上もの中国留学生が日本にいたといわれ、辛亥革命が勃発すると、その多くが帰国して革命戦士となった。

その留学生の中に、孫文が後継者と期待していた汪兆銘(おうちょうめい)と蒋介石(しょうかいせき)もいた。女性の留学生の姿さえも数多く現れるようなっていた。その一人がこの本のタイトルとなり、物語の主人公で、のちに汪兆銘の妻となる陳璧君(ちんへきくん)。

陳璧君は南洋の有力華僑の娘で、日本留学中は、よく東京の滔天家に友達をつれて遊びに来て、龍介等を相手に、日本の剣道をするのを楽しみにしていた活発な女性であった。

その当時、中国の良家の女性は纏足(てんそく)が当たり前で、外で活動する女性を見かけるのさえ滅多にないといわれた時代である。にも関わらず彼女は、汪兆銘とともに、一方で日本に抗戦し乍(なが)らも、中国人民のために、そして全アジアのために、日本と協力して欧米の帝国主義と戦うべしと、孫文の唱えた革命に生涯を捧げた。

一九一二年(明治四十五年)一月一日、孫文が中華民国の臨時大総統に選出され、三百年近く続いた王朝政府清国は滅亡する。孫文の辛亥革命は、中国歴史の上でも、紀元前三世紀の秦の始皇帝から延々と二千年続いた中国皇帝政治の終焉という、エポックメイキングな出来事であった。

辛亥革命後も依然として麻の如く乱れた中国を統一するべく、孫文は革命運動や国民党の再組織化を試みた。そしてその理想を実現しようと尽力した末、一九二五年に肝癌により北京で亡くなった。

孫文の死床を見守る人々の中に孫文の妻・宋慶鈴とともに、毎日のように孫文の看病を続けていた陳璧君の顔もあった。中山記念堂に入ると、正面に大きな孫文の肖像があり、その両脇の「総理遺嘱」(孫文遺言)が目を奪う。

革命尚未成功      革命 いまだならず

同志仍須努力      同志 なおすべからく努力すべし

大東亜戦争で日本は敗戦国となり、アメリカが後ろ盾になった蒋介石の中国は戦勝国となった。その結果、日本との協力に奔走した汪兆銘、陳璧君夫妻等は蒋介石の中華民国政府からも、毛沢東の中華人民共和国政府からも、「漢奸」として疎んじられ、牢獄へ拘束される身となる。

筆者(父邦輔)は従兄弟の龍介から留学生、陳璧君の若き日の実像を耳にし、陳璧君の生き様に関心を持ったのだろう。

彼がこの文を寄稿しようとしたのは、中国人の誇りを持ち乍らも、日本を愛し、日本人を信頼し切っていたが故に牢獄死せざるを得なかった陳璧君を、日本人にも、中国人にももっと知ってもらいたい。そしてこれからも日中友好を願う日本人の身の処し方の参考なればと思ったからに違いない。