フランチジェナ街道とは

フランチジェナ街道の起源は、476年の西ローマ帝国滅亡後、東ローマ帝国とイタリア半島の覇権を争っていたランゴバルド王国の時代にまで遡る。

当時ランゴバルドの人々は、イタリア北部と南部を往来する際、東ローマ帝国の影響が強いフィレンツェ周辺を避け、トスカーナ地方西部を通る経路、具体的にはアペニン山脈を越え、ルッカ、シエナを経由し、オルチャ渓谷に繋がる道を利用するようになった。

このランゴバルド王国が、774年にフランク国王カール大帝に滅ぼされたことで、この道が「フランス方面に端を発する道」、つまり「フランチジェナ街道」と呼ばれるようになったようだ。「フランチジェナ街道」の名は、トスカーナ州南部アミアータ山麓に建つサン・サルヴァトーレ修道院(87頁参照)が所蔵する羊皮紙の文書(876年)に歴史上初めて現れる。

10世紀以降は、「巡礼の道」として知られるようになる。990年、英国カンタベリー大司教シゲリック(Sigeric)がローマから帰任後、ローマからカンタベリーまでの旅を記録に残した。

この中に記された町は現在のフランチジェナ街道沿いの街とほぼ対応しており、フランチジェナ街道は、このシゲリックの記録が基となっている。ローマを目指す巡礼者は1000年前後から増加し、ローマから更にプーリア州の港まで歩き、聖地エルサレムへ向かう者も多かった。

ヴィテルボ・プリオーリ宮「地図の間」壁画(部分)。ヴィテルボを中心に、ローマからボルセーナ湖までのフランチジェナ街道沿いの主な街が描かれている。

    

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