「さっき、入口のところで飛んできた白いものって何だったんですか」
「ああ、あれね。お豆腐よ。私がドジだから手がすべったのよ。ダメね」
髪の長い奥さんは口に手を当てて小さく笑っていたけれど、なんとなく横顔が少し淋しそう。そうですか、と言ってはみたものの、少し疑問が残る。手がすべって豆腐を飛ばしてしまうことなんか、あるのだろうか。
この「田辺豆腐店」は名古屋ではよく知られたお店みたい。一階がお店でその奥に自宅がある。お店もお家もすごく大きく、お金持ちなのだろうか。駅前に市民市場があって、そこにもお店があるという。
田辺家は、おじいさま、おばあさま、旦那さん、奥さんと男の子が二人いるということは聞いていた。そこに私が住み込みで働くから私を入れると七人になる。秋田の実家も兄弟がたくさんいたから一緒ぐらいだ。
昨日からずっと電車に乗っていたので疲れてしまった。もう夕方だし、お腹もペコペコ。
「白石さん、今から夕飯の準備をするからお茶でも飲んで待っててね」
「はーい」
奥さんがやさしそうな人で本当によかった。食卓のイスに座り、お茶をいただくことにする。ここの家の家具や置物はみんな豪華なものばかり。台所もすごく広い。一階は店舗兼豆腐工場、台所と居間、それにおじいさまたちの部屋。二階が旦那さんと奥さんや子供さんの部屋になっていて、他にも部屋がたくさんあった。私の部屋はどこになるのだろうか。
どんな仕事をするのかもよくわからないけれど、とにかく早く覚えなくては。それから、方言も直さないといけない。
「ズーズー弁のままだと笑われるよ」って、お母さんが心配していた。
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