Ⅱ 東近江 一九八○ 初夏

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「坊ちゃん、大型トラックが走る山道を上ります。かなり埃っぽいので気分が悪くなったら言ってください」

出迎えてくれた若い社員はそう言うと、僕を助手席に座らせた。その丁寧な言葉遣いに、(年齢は二十代の後半であろうか。

やはり建設現場で働いているだけあって、逞しく日焼けした体躯が作業服の上からも想像できる。)などと勝手に観察し、感心しながら運転席の若い社員を見ていた。

何よりも印象に残ったのは終始控えめな礼儀正しさで、後でそのことを父に話すと「そうか! 彼は本社から勉強のために、この現場に配属された若手だよ。確か、W大の理工だったかな。将来は本社の幹部だろう」父は僕の言葉に眼鏡の奥の黒褐色に刻まれた皺を一層深くして笑った。

僕を迎えに来たワイルドキャットは、泥と埃と油で厚化粧され、傍目にも酷使されている印象は否めない。彼がキーを捻ると、如何にも過酷な現場を疾走してきたかを証明せんとばかりに、まさに山猫のようにブルブルっと大きく車体を振ると、ディーゼル特有の音と匂いを残して駅を後にした。

近江八幡駅から琵琶湖岸を走る浜街道を下る。その後中山道に入ると、東近江のダムに向かった。埃と油が染みついたワイルドキャットは、力任せのディーゼル音を響かせながらダムに向かい疾駆する。

そして近江八幡駅から四○〜五○分程走り、東近江の山奥にあるダム工事現場の事務所に到着した。

東紀州熊野のような深く、深く、さらに深い奥に折り重なるような山並みを、ひたすら進む。そして鬱蒼と茂る苔むした雑木林を縫うように走ると、急峻な岩肌を晒して谷間を流れる宇田川の黒々とした緑の中に、仁王立ちをするコンクリートの壁を僕は想像していた。

ところが、ダムに向かう標識を目にした頃には平坦な尾根を緩やかに進むワイルドキャットのウインドウから穏やかな斜光が差し込むことで、それが間違いであることに気付いた。到着した工事現場で僕が目にしたのは、破砕した石を幾重にも積んだ、穏やかな斜面をもつ堤のようなダム。「ロックフィルダム」であった。

この僕の感想に、「『黒部の太陽』にでも出てくるような険しい峡谷間にコンクリートで建設されたアーチ式のダムをイメージしてたんだろう」

「この宇田川渓谷は、山あり、谷あり、また山あり、という信州の峡谷のような場所じゃない。標高差の少ない谷が奥へ奥へと続いている感じだな。川があり、谷があり、そして小さな谷がある。一言でいうと、海に向かう急峻な水の流れと、湖に注ぐ穏やかな水の流れの違いだ」

父はそう答えた。

父の説明によると、この宇田川渓谷は右岸側と左岸側では斜面角度がかなり異なる。右岸側は傾斜角40度ほどの急斜面なのに対し左岸側はそれよりも緩やかである。