「こういう言葉で、相手は安心したり喜んだりするだろうな、と思うときがある。口にしようと思えば簡単にできる。でも口にしない。なにも意地が悪くて黙っているわけじゃない。逆に口にしたとして、けっして優しいからじゃない。

そうすることに理由があれば、その理由に自分は縛られていることになる。そうじゃないんだ。ほんの気まぐれに、そうすることを選んだり、しないことを選んだりする」

女はいつから路地で張っていたのだろう。松嶋先生が玄関を出て、外廊下を二階へ上がっていくところを見ていたのだろうか。

「こいつ、殴ってやろうか、と思って、殴らない。でも俺は、自分が相手をやすやすと殴れることを知っている。同時に、殴らずに済ますことも簡単にできる。そんなとき、誰に向かってというのではないが、ざまぁみやがれって気分になるんだ。どちらかにするか、瞬間、瞬間で、すべて自分に委ねられている。なにか守るべき規範や良心の声があるわけじゃない。それが俺にとっての、最高の自由だよ」

女はロングブーツを履いている。あれは違うな。ロングブーツを履いた探偵というのはいないだろうな、きっと。着脱に時間がかかる靴、走れない靴を探偵事務所のスタッフが履くか?……いや、勝手に決めつけない方がいい。先入観は危険だ。

第一、俺は今どきの興信所についてほとんどなにも知らない。人手不足で、主婦をパートで雇っているかもしれないじゃないか。家を飛び出して実家に出戻った人妻の身辺を探るくらいは、パートで十分だ。

「ことお母様に関しては、良知先生はその自由を謳歌できないのね、きっと」

思わず振り向いて松嶋先生を見た。先生は自分の裸足の足先を見つめて、足指をつかってグーとパーを繰り返している。ヨーガ歴の長い先生が足指を広げると、五本の指が均等に開く。ふと、面接で初めて会ったときの、先生の足首を思い出した。

夕方から雪になると予報が出たひどく寒い日の午後で、先生は肌色の厚地のタイツを履いていていた。腰回りで選ぶと長さが余るのか、タイツは足首で余って皺になっていた。色が思い出せないくらい地味なスーツを着た先生は、襟元からフリルの付いた白いブラウスを覗かせて、カメオというのだったっけ、女の横顔が白く浮き出た大きなブローチをしていた。