第5章 韓国と日本で働く
私のアイデンティティ
私は二十五歳くらいから、自分のアイデンティティを確認するために自分一人で韓国で生活できるか、チャレンジしてみようと思っていました。
二十七歳頃になります。私は韓国の義兄の自宅に六か月ぐらい居候をし、その後一年くらいアパートを借りて、ソウルの産婦人科病院でお仕事をさせてもらいました。新生児室でのお仕事でした。しかしそこで長く仕事をしたいと思えなかったのです。
当時その病院は妊娠中絶する女性が多く、時には中絶が失敗して、子宮に穴が開いている若い女性が治療に来ておりました。その現実を見て、とっても心がつらくなりました。
国が貧しいと女性が悲しい思いをするのだと痛感しました。もちろん日本でも近くの診療所で中絶に失敗して子宮に穴が空いた人がいたと人伝いに聞いたことがありますが、実際にその現実には出会っていませんでした。
私はそれ以後病院の仕事を辞め、近くにある日本語学校の講師をしました。当時韓国は日本ブームで日本語を学ぶ人も多くいました。ソウルの鐘路5街(チョンノオーガ)にはけっこう日本語学院が軒を連ねていました。
私はある日本語学院に直接入って行き、日本語の講師をしたいと直談判しました。そこの院長は即明日から来るようにと言ってくれました。彼女も戦後日本から韓国に引き上げてきた方だそうです。韓国語の発音にちょっと日本語訛りがありました。
彼女がすぐに私を日本語の講師として選んだのは、私の韓国語の発音がよかったからだと後から私に言ってくれました。そうして、初めて日本語を教えることになりました。朝九時から、夜九時まで大声を出して「アイウエオ」の発音の練習をしました。
最初は楽しかったのですが、月の後半は声が出なくなり、日本語学院は一か月で辞めました。給料はたったの一万円でした。
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