第二話 雪降る町で
昭和二十年、父の実家愛媛県今治で生まれた。愛媛での記憶は全くない。思い出せるのは新潟県長岡の、社宅暮らしからである。
四人兄妹の一番下、甘えん坊でわがままで、人前では話すことができない子どもだった。意思表示は、頷(うなず)く、首を振る、泣く、これしかできない。小学校に入っても三つ年上の姉がよく面倒を見てくれていた。
人前で話すことはできなくても、勉強はそこそこできたので、仲間外れにもならずに済んだ。毎回通知表のコメント欄には、「積極性がないのが残念です」と書かれていた。今の時代なら一種の発達障害として特別の支援が必要な子と見なされたかもしれない。
母親ベッタリで、小さい頃からよく母の手伝いをしていた。なぜか思い出の風景の中に兄姉の姿はない、勉強で忙しかったのか、友だちとの付き合いがあったのか。
北国の秋は短い。向かいの山に三度雪が降ったら、里にも冬がやって来るといわれていた。そんな秋晴れの一日、母と白菜や大根の漬物を漬ける。
井戸端にたらいを置き、二分の一に切った白菜を洗う。洗った先から積み重ねておき、大きな樽に白菜をきれいに並べていく。母が手際よく、塩を振ったり昆布を挟んだり鷹の爪を散らしたり。小学校高学年ともなれば一端の片腕だった。干してシワシワになった大根は、沢庵漬けにする。
毎年冬を越す準備は一大行事である。隣近所のお母さんたちと一緒にやっていた記憶がある。
小さい頃から「食」には関心があり、台所にもよく立った。食卓の準備や片付けも率先してやっていたと思う。休みの日に台所でゼリーや蒸しパンなど作ったこともあった。大人になって、食べ物関係の道に進むようになったのも、偶然ではないかもしれない。
戦後の昭和二十年代、三軒長屋の社宅に住んでいた。井戸もあった。たらいで洗濯をしていた時代である。真っ白に漂白して、竿いっぱいに干すのが母の自慢だった。夏や秋晴れが続いている時はいいが、みぞれが降り出し雪になる頃は、その洗濯干しもできない。陽の当たらない部屋に干すしかない。
働き者の母と、設計技師の父と、年の近い兄妹四人。貧しいながらも幸せだった思い出がたくさん残っている。
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