優子 ―夏―
大学時代に高額のアルバイトに就けたのだって、進学校からいい大学へ進んだお蔭だ。もっとも大企業や官公庁への就職は端から諦めていたらしく、大学を卒業するとおにいちゃんはアルバイト先にそのまま就職した。
姓も変えているのだし、就活をしてみたらどうかという大学の先生やおとうさんの勧めを頑なに拒否したのは、落胆することが怖かったからだろう。もっと言ってしまえば、希望の会社に入れなかったときに、それをおかあさんのせいにしてしまうことが嫌だったのだ、きっと。
おにいちゃんにとっては不本意な就職だったのかもしれないが、社会人になりたての頃にはもう、大学で同期だった人たちの初任給の1.5倍は稼いでいた。そこで、おにいちゃん、すごいね、と言ったら、ひどく怒られたことがある。生涯賃金で比べれば、俺なんか完全に負け組なんだぜ。お前はなんにもわかっちゃいない。凄い顔で睨まれた。
おにいちゃんはなんでも不満だらけだ。なまじっか頭がよく生まれてしまったものだから、自分に頼むところが大きくて、そのぶん落胆や悔しさも人一倍大きいのだろう。そう思うとかわいそうになる。美津子さんのような人と知り合えても、けっきょく諦めなくてはならなかったし……。
そう、美津子さんの話だった。
留学先から我が家へ届く手紙からはいつも同じ、かすかに抹香(まっこう)くさい、というとあまりいい香りではないような言い方だけれど、実際にはなんともいえない上品な香りがした。美津子さんは普段愛用している香水を手紙に数滴たらしていたのだ。おにいちゃんがその手紙に鼻を押し当てて、じっと目をつむっているところを見たことがある。
外泊して帰ってきたときにおにいちゃんの身体からかすかに漂ってくる匂いと、それは同じだった。大人になってから、それがミツコというフランスの香水であることを知った。自分と同じ名前の香水を愛用するなんて、なんてステキなんだろう。
会ったこともないのに、あたしは美津子さんにずっと憧れていた。美津子さんが大学卒業後、国際交流基金というところに就職したと聞いていたので、あたしは思い切って電話をかけてみた。