女は口元を歪めて焦点の定まらない目になった。喜んでいるのだ。なのに痛みに耐えているようにしか見えない。
島田というのは、きっと島田製本の社長のことだろう。俺たちの住む地域は小さな製本会社が多い。というか、多かった。今は数が減ったが、島田さんのところはけっこう規模の大きな会社だ。
社長は会社近辺の地主でもあり、つまり山手線の内側に広い土地を持つお大尽(だいじん)で、貸ビルだの駐車場をいくつも所有している。親父が勤める米屋の得意先でもある。それに……たしか今は会長に退いている爺さんの方が、あの地区の保護司だったんじゃないか。たしか親父がそう言っていた。だからお袋を雇う気にもなったのだろう。
「おかあさんは即戦力になるよ。なにしろ資格を取ったんだから」
親父が自分のことのように胸を張った。女の顔がまた歪む。さっきは嬉しさから、今度は自分の話題はもういいといった羞恥から。歯痛でも我慢しているような表情だ。
どんな感情を抱いてもこの顔か。ここでの歳月が、こうしてしまったのだ。
「今日はよく来たね。もうすぐでしょうに」
女が優子の腹に視線を置いて、話題を変えた。
「予定は四月の終わり。おかあさんが戻ってきてからだね。すっごく順調だよ」
さっき道端で優子が両手で顔を覆った、それと寸分違わぬ仕草で、女は顔を覆った。
やはりDNAは間違いなく複製されているのだ。俺たち三人は、女が肩を震わせるのをしばらくのあいだ黙って見ていた。
「なにもしてあげられなかった。娘が結婚するっていうのに……」
女は手で顔を覆ったまま、絞り出すような声を出した。ああ、ここで優子もいっしょに泣くな、と俺は少しばかり身構えたが、予想は見事に外れた。妹は第一声を発したときと同じ、涼しい顔で泣いている女を見つめている。俺の目には、口元だけで微笑んでいる妹がひどく薄情な女に見えた。ついさっき子供たちの歓声に耳を傾けていた微笑みとはまるで違う。
「おとうさんがちゃんとしてくれたよ。お友達もみんな参加してくれて、すっごくアットホームな式だった。写真見たでしょ?」