「勘助! 待つのだ」
信玄の声は、戦場の軍馬の嘶(いなな)きの前にかき消された。
黒色の甲冑を着た上杉軍の槍隊が、武田本隊へさらに迫ってきた。両側から、茶色や黒色の騎馬に乗った上杉軍の騎馬隊が襲い掛かる。信玄の本陣、目の前にまで、“竹に雀”の上杉の家紋を付けた旗が押し寄せて来た。黒地に白い文字で書かれた“毘”(毘沙門天(びしゃもんてん)の意)の旗も迫り来る。
赤備えの甲冑を着ている武田軍の鉄砲隊や騎馬隊の数は、見る見るうちに減っていった。菱形を四つ重ねた“武田菱”の赤い旗もその数を減らしていた。
焦りながら信玄は、尚も本陣中央で床几に座っていた。焦りで震える右手には、“風林火山(ふうりんかざん)”と書かれた黒い軍配を持つ。
身体には、赤い甲冑を纏(まと)い、両立ての金色の角が付いている〝諏訪法性兜(すわほっしょうかぶと)〟をかぶっている。この兜は、頭頂部から、白色のヤク(ウシ科)の毛があしらわれていた。前立てには赤い鬼の顔が描かれている。
信玄は軍神が祀られている諏訪大社の加護に預かろうと、戦いの時には、この兜を諏訪大社から拝借していた。
「動かざること山の如し」
次々と武田家の重臣が討ち取られていく中、信玄は、その床几から一歩も動かなかった。
妻女山に移動した別動隊一万二千が帰って来るのを身じろぎ一つせず、どっしりと待ち構えていたのであった。
口元を一文字に結んだ信玄の顔髭だけが、風に揺れて靡(なび)いていた。爽籟(そうらい)が川中島の戦場を駆け巡る。
【前回の記事を読む】【歴史小説】武田信玄率いる八千の本隊が鶴翼の陣で待ち伏せ。軍神・上杉謙信は車懸かりの陣を敷き濃霧が晴れるのをじっと待つ