ではその逆の場合の、私がある人の時計を進行方向にいびつにつぶれた形に見ることは、その時計に対して意味があるのだろうか。もちろん立場が変わるだけなので同様に無意味のはずだ。最後に、歯車を真円とみる持ち主には気づけないが、歪みを見る私にはわかる何かがこの上にあるだろうか。
常識的に考えて、私だけに関知され得る物理的な変化は存在しないように思う。私にわかるなら、当事者である持ち主には、別の表現形ではあるかもしれないが、必ず何らかの変化が告知されるのではないだろうか。
例えば地球がいささか扁平であることは、地球からある程度離れることで見えるようになるが、正確な計測や、重力の強さの違いによってそこに住む我々にも理解できるものになる。
時計についての以上の説明にはもちろん唯一の例外がある。「他人からはいびつに見える」というその1点のみ、視点の変化が有意義となるのだ。
しかしそれは例えば 10円硬貨が角度によって楕円に見えたり棒状に見えたりするが、よく確認するならおなじみの円盤形であることがわかるという、日常感覚で対処できるありきたりな意味であり、それを超える深遠な事実など何1つ存在しない。
だが相対論はそれがあると言い、信じてしまう人が多数だ。なぜそうなってしまうかは改めて考えるべき問題ではある。
ただ、高速移動しながら私の時計を歪んでいると見る視点がいくつも想定できるとして、それで私の時計が動かなくなるということが考えられるか、逆に私が相手の時計を見ただけでなぜか停止するということがありうるのか、そういうことをまずは常識的に考え直してみることが必要かと思う。