自分を看病した疲れから病気に罹って亡くなり、亡くなったあとも霊となって自分を守り通してくれた『ふみ』さんに対し、弘大は、大人になっても特別な思いを抱いていた。そして、自分も人の親になった。 

そんなある日、弘太郎が妻晴子の腕に抱かれて乳を口に含んでいるときに、突然『ふみ』さんが現れた。彼女は弘大に背を向けて弘太郎の様子を眺めていた。うれしさと懐かしさに心動かされた弘大は、彼女との約束を忘れ、つい声をかけてしまったのだ。

「ふみおばさん。ご無沙汰しています。弘大です。覚えていますか?」

その弘大の声に振り向いた『ふみ』さんは、額から角が生え、目が吊り上がって眉間に深い皺ができ、口角からは長い牙が飛び出ていた。それはまさしく鬼夜叉の形相だった。腰を抜かした弘大をにらみつけると、

『邪魔をするなと言ったではないか』

そう低い声を出したあと、一瞬悲しげな表情を見せたかと思うと、そのままどこかに消えてしまった。その夜から弘太郎は高熱を出し、顔や体中に発疹が現れ、耳の下が腫れ上がり、真っ赤な醜い顔になってひたすら水を欲した。そして、赤く爛れた長い舌を出してひとしきりもがき苦しんだあと、心臓麻痺で急逝した。

弘大はうろたえ後悔したが、もはやどうしようもなかった。若夫婦を不憫と思い顔を合わせるのをためらってか、幼子の葬儀に参列する人は少なかった。形ばかりの葬儀が終わると、弘大は勤めていた京都府警を休職し、放心状態の妻晴子を伴ってしばらく城之崎温泉に逗留し、心と体の療養に努めた。そのあと一年ほど地方の観光に時を費やし、ようやく夫婦は落ち着きを取り戻していった。

そして、晴子は再び懐妊した。二人は、その翌年生まれた次男に、同じ弘太郎という名をつけて長男として育てることにした。すべてを上書きすることで、あの忌まわしい出来事を完全に記憶の外に葬り去ったのだった。

もちろん『ふみ』さんは、何事もなかったように再び姿を現した。弘大は、今度こそ弘太郎が無事成長を遂げ、『ふみ』さんの姿が見えなくなるまで彼女のことを無視し通した。