「喫煙所はあっちだよ」
妊婦の威厳をもって優子が指さす。親父は苦笑いしながら小屋から出て行った。そのとき初めて、十畳ほどの狭い小屋の隅に、でかい石油ストーブが鎮座しているのに気づいた。
ひと月前に親父がここにやってきたときには、この狭い小屋の窓も戸も閉じられて、ストーブの炎が威勢よく燃えていたのだろう。
小屋の外で「ちょっと失礼します」という親父のよそゆきの声が聞こえた。今日の親父はなんであんなに落ち着き払っているのか。俺たちを連れて初めてここにやって来たというのに……。
落ち着いている振りをする、ということは、あの男に限ってはあり得ない。無意識が服を着て歩いてるような人間なのだ。呆れるのは、その無意識とタテマエとが、ほとんど誤差なく一致している点だ。
というか、一致しているのはヘンじゃないかと疑問に思ったりしないところだ。バカ、と言ってしまえばそれまでだが、肉親である以上、そう達観もしていられない。
お袋はあの男といっしょになって苦しんだに違いない。犯行前のお袋はいわゆるノイローゼというやつで、何度も親父にSOSを出していたという。それを親父は一度も正面から受け止めようとはしなかった。
家事まで手がつかない状態になっている相手に、一言、そんなこと気にするな、としか言わなかった。育ちざかりの子供が二人いて母親が家事を放棄すれば、家の中がどんな状態になるか、俺は知っている。親父だって知っている。なのに取り合わなかった。