「ふみ」さん

その年、小学一年生になったばかりの姉はというと、大好きなハンバーグを頬張ることに一生懸命で、俺がふと口にした戯言なんか全く気にも留めていなかった。

「ヒロくん、今なんて言ったの?」

一瞬見せた怖い顔を母が無理に抑え込んで、悲しみに満ちた目のままで、わざとらしい微笑を湛えて俺に聞いた。もう一度同じことを言おうと思ったのだが、そのときには横にいたはずの「おばちゃん」がいつの間にかいなくなっていたので、俺は黙ってしまった。母はそれ以上、幼い俺を追及しようとは思わなかったようだ。そのときはそれで終わった。

その頃のわが橋口家には、高校で日本史を教える教師の父弘一(ひろかず)、専業主婦の母春江(はるえ)、姉の文香(ふみか)、そして長男の俺弘樹(ひろき)の他にもう一人、名前は知らないが「おばちゃん」がいた。

彼女は、俺が物心ついたときからずっと俺のそばにいた。ふといなくなることもあったが、気がつくといつも隣にいて俺を見ながら微笑んでいるのだ。いつも髪をアップに大きく結い、今思えば家庭には場違いな白いロングドレスを着ていた。

母が俺に乳を含ませるのを、彼女はいつもすぐ横からじっと見守っていた。俺は、いつもその温かい視線を感じていた。だから、俺がこの世に生を受けていちばん最初の記憶というのは、母には申しわけないが「おばちゃん」の笑顔なのだ。

そして時は流れ、俺がようやく片言を話せるようになった頃、積み木で遊ぶ俺の横でじっと見守っている彼女に「おばちゃん」と呼んでみた。彼女は笑顔を見せるだけで返事をすることはなかった。それまでも、俺が抱いてもらおうと近寄っていくことがあったが、なぜかいつも手が届かなかった。彼女はいつも俺のそばに、ただいるだけだった。そして、俺はそういうのが当たり前だと思っていた。