「ふみ」さん
「そしたら皆さん、和讃(わさん)やりましょか」
そう言って、黒い着物を着た親戚のおばさんたち三人が祭壇前の最前列に陣取り、その中央の一人が、
「唱え奉る三宝御和讃にー」
と口火を切ると、三人が声を合わせて
「こーこーろーのーやーみーをー、てーらーしーまーすー」
と歌い上げ、鈴や鉦(かね)を鳴らしながら三宝御和讃という御詠歌を歌いだした。その内容はわからなかったけど、なんとなくもの悲しい気持ちにさせるメロディーだった。それがきっかけのように、その場に残っていたみんなが合わせて歌いながら涙を流しはじめ、嗚咽の声さえ聞こえだした。
そのときの俺には人の死というものに実感がなかったので、悲しいと感じることもなく、父の胡坐の中で異世界に来たような不思議な気持ちで、その光景をただ眺めていた。
さっきお坊さんが帰ったとき、夕刻までの雨は雪に変わっていた。みんな歌いながらも寒そうにしていたが、俺だけは父の懐の中でそのぬくもりに包まれていた。祖父の弘太郎は、まだ六十五歳という若さだったが、風呂場で倒れそのまま帰らぬ人となった。脳溢血だった。祭壇の写真がピンボケだったのは、急なことで適当なものが見つからなかったからだろうか。
それは、俺がまだ幼稚園に上がる前のことだった。喋れる言葉数も少なく、記憶など曖昧なはずのこんな幼い頃の出来事のなかで、なぜかこのお通夜のことだけは今でも鮮明に蘇ってくる。
ふと気がつくと、俺たちと一緒に暮らしている「おばちゃん」が祖父の棺の枕もとに一人、じっと鎮座していた。「来ていたんだ」そう思った。家を出るときにいなかったので、いつものようにどこかに行っているのだと思っていた。全員が黒の喪服を着て泣いているなか「おばちゃん」一人だけが、いつもの真っ白なロングドレスを着て、祖父の顔をのぞき込むようにじっと佇んでいた。服装はどう見ても一人だけ浮いているのに、その場の誰も何も言わないし、目を向けさえしなかった。