眠れる森の復讐鬼

海智が教育委員会を毛嫌いする理由はそれだけではない。委員会には保護者である者が含まれなければいけないという規定がある。そしてこの規定のために当時の水山市教育委員の一人に任命されていたのが高橋敦、つまり漣の父親であった。

高橋敦は観光会社の社長で、水山市周辺でいくつかのホテルや旅館を経営している。目立った産業もない水山市では地元の名士という扱いだ。しかし元来押しが強い性格で、自分より弱い立場の人間に対しては随分不遜な態度をとることで有名で、非常に地元の評判が悪い。

教育委員会に保護者を含めるのは親の意見を取り入れようという考えなのだろうが、この時ばかりは完全に裏目に出た。いじめの加害者の保護者が委員であった時、委員会で公正で積極的な取り組みが果たして行われるか。横風で強引な高橋の父が調査を止めさせたことは想像に難くない。

学校や教育委員会の怠慢に業を煮やした経子は遂に弁護士に相談し、前年に公布されたいじめ防止対策推進法に基づき、学校と水山市に第三者委員会の設置を要求した。これにはさすがに学校側も追い詰められたようだ。

マスコミの攻勢もあって、市は第三者委員会設置を検討するとコメントを出した。海智はこれでやっと悪が裁かれると溜飲が下がる思いだった。

ところが六月になって事態は急展開した。学校側が第三者委員会設置を見送り、内部調査に切り替えると発表したのだ。勿論、押しかけたマスコミがその真意を追及したが、「家族の意向であり、これ以上の調査を望んでいない」との一点張りだった。マスコミは勿論、経子に取材を申し込んだが、彼女は全て拒否し沈黙を貫いた。

この経過に海智は非常に落胆した。何故梨杏の母親はいじめの追及を突然諦めてしまったのか。いじめの証拠が無いと思っているのなら、今すぐにでも彼女に会いに行って、桃加達がやってきた悪行を全て伝えてもよいと思った。

だが、いじめがあると確信したからこそ第三者委員会の設置まで要求したのではないのか。それを突然撤回したのは何故か。これ以上続けても娘がもう助からないと知って全てに絶望し、精神的に疲れ果ててしまったのか。

それとも学校や教育委員会の高橋から何らかの妨害工作があったのか。いずれにせよ当の母親が諦めてしまったのでは、もうどうしようもない。

(これで本当にいいのか。自分に好意を寄せてくれた梨杏は虐め殺され、その加害者達がその姿を嘲笑っているのを耳にしてそれで平気な顔で学校に行くなんてもう耐えられない)