「宝亀七年に毎夜、瓦・石・塊が降り積もる怪異が二十日も続き、翌年の冬には雨が降らず井戸の水も涸(か)れ、宇治川が干上がろうとしたし、同年百川と光仁天皇・東宮(山部王)の三人そろって、甲冑を着けた百人余りの人に囲まれるという夢を見、宝亀十年になると怨霊の祟りは更に極まり、七月五日、ある巫(かんなぎ)が百川に、この月の九日には物忌を固くすべしと告げました。

百川は日頃、夢見の悪いことに思い合わせ、九日には戸を閉めきって謹慎していました。また百川の祈祷師を務めていた泰隆という僧が、百川が井上内親王を殺したので首をはねられる夢をみたと告げましたが、彼は泰隆に逢わなかったため、百川はその日、四十八歳という年齢で急死しました。

辣腕家(らつわんか)、百川の尽力で山部王(やまのべおう)が後の桓武(かんむ)天皇(五十代)として即位したのは延暦元年(781)、皇太子となって八年目、四十五歳の時で当時の天皇即位年齢としては決して早くはありません。百川はその二年前、四十八歳で死んでいます。

光仁帝もその九カ月後に崩御されますが、在位中十年間は高齢もあって政務は次男の早良親王に頼っておられました。

長男の山部は、相変わらず狩りと遊興に明け暮れる毎日で、また光仁帝も先の皇后と懇(ねんご)ろになった山部にはいい感情も持てません。

「山部は無禮(ぶれい)の親王なり」として父は次男に期待していたのです。その遺言もあって桓武は即位後すぐに早良を皇太子に立てています。

しかし、桓武は乙牟漏との間に九歳の安殿親王(あてしんのう)(五十一代平城天皇)がいて、父が亡くなると桓武と早良の確執が目立つようになります。

早良親王は光仁帝の信任が厚かったこともあり、それを知る旧豪族の大伴(おおとも)氏や佐伯(さえき)氏は彼に期待の目を向けます。これは桓武を担ぐ藤原式家にとって大きな不安でした。

この頃になると、即位した桓武天皇の重点施策の一つに遷都(せんと)(候補地は平城京から北へ40キロ先の長岡京)のことがありました。

延暦三年(784)五月、突然、蛙が三万ほど集まって三町ばかり連なり、難波から天王寺へ入るという奇瑞(きずい)が生じ、これは都を移すための兆候であるとの大自在王菩薩(だいじざいおうぼさつ)の言葉があったそうで、そうなれば遷都は和銅三年(710)の平城京以来、七十年ぶりとなります。

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