佐吉は、父親に婚儀を数日後に延期させて欲しいと頼んだが、もはや変更はできないとにべもなく断られた。そして、更にこんな言い方をされたのだ。「今夜五つ時に、花嫁は実家を出発する。おまえはこの家で村人たちとそれを待つのだ」と。
佐吉は父の言葉の意味がよくわからないまま、尚も食い下がろうとした。「だって、初枝は東京にいるんだよ。来られるわけがないだろう?」と。しかし、それに対する父親の言葉は、突き放すようなものだった。「わしは花嫁が誰であるか知らないし、知る立場にはない。おまえも花嫁が到着するまで、それが初枝さんであることを祈ることだ」と。
佐吉は重ねて尋ねた。親さえ知らない花嫁が、どうやってこの家にやってくるのか。もしも初枝でなかったら、誰が来るのか。誰がどうやって俺の花嫁を決めるというのかと。それに対する父親の言葉は、「おまえは自分の力で嫁を決めることができる」という繰り返しの言葉だった。
徒に時は流れていった。午後には近所の女房たちが集まってきて、披露宴の支度を始めた。大広間には塗りの膳が並び、庭には花見をするような茣蓙があちこちに広げられ、たくさんの提灯が庭木の枝から枝へと張られたロープにぶら下げられた。村の魚屋からは、荷車でたくさんの鯛が運ばれてきた。八百屋からも、酒屋からも、今夜の大披露宴のためたくさんの食材を載せた荷車が列を成した。
佐吉はみんなから「おめでとうございます」と言われるのだが、「皆さんは俺の嫁が誰なのか知っているのですか?」と聞いても、冗談だと思っているのか、微笑むだけで誰一人答えてはくれなかった。佐吉はもう後戻りできないと思った。あの時代、親の決めた相手と結婚するという風習は、地方では色濃く残っていた。佐吉は、もはや初枝のことは諦めなければならないと思った。
【前回の記事を読む】江戸時代、養蚕技術を東北にもたらした八郎太はみるみるうちに出世し、のちに中村姓と帯刀を許される大庄屋となったのだった。
次回更新は11月3日(日)、22時の予定です。