「俺には、先を誓った女性がいる。彼女と添い遂げるために、俺はこの家を継ぐことを放棄する」と。すると、父親から意外な答えが返ってきた。「おまえは、今夜その娘を嫁に迎えればいいじゃないか」と。父親が佐吉に言ったのは、「おまえは自分の力で嫁を決めることができる」ということだった。
このとき、佐吉の祖父は既に他界しており、父は今でいう胃がんに侵され、医者からは余命三ヶ月を宣告されていた。本当は、息子が嫁をもらうその日に中村家の家督を譲るのが普通なのだが、父親はそのような余裕はないと判断した。だから自分の体が動くうちに息子に家督を譲ろうとしたのだった。
しかし、佐吉はいくらなんでも物理的に不可能だと思った。佐吉の恋人である初枝(今の婆ちゃん)は、そのとき東京にいた。彼女は隣町の呉服問屋の一人娘だったのだが、これからの女は教養がなければならないという彼女の父親の信念に従って、東京の親戚の家に下宿させてもらいながら女学校に通っていたのだ。
佐吉とは郷里にいる間に知り合って、今でも文通で互いの愛を確かめ合っていた。だが、今の時期に里帰りするなんて話は聞いていない。いくらなんでも今夜の婚儀に、今から東京を出発して参加しろというのは無理な話である。
たった今電報を打ったところで、初枝に届くのに一時間はかかるだろう。彼女が身一つで上野駅に着くのが更に一時間後、上野からすぐに汽車に乗れたとしても横手まで来るのにそこから二十時間以上かかるのだ。そこからが長い。車を手配できたとしてもこの山村に到着するまでに、三時間は見ておかねばならない。つまり、今から連絡しても今夜の婚儀に出席させることは物理的に不可能なのだ。
佐吉は困った。何をどうしたら初枝を今晩この家へ呼ぶことができるのだろう。父はああ言ったが、自分にそんな不可能を可能にする力が本当にあるのだろうか。見当もつかなかった。