八郎太の蚕小屋には近所の子どもたちが毎日遊びに来た。そして、彼らは八郎太が実践する蚕の卵から幼虫の飼育の仕方、繭玉の作らせ方までを自然に学んでいった。初めて絹糸ができたとき、八郎太はこの土地を支配する宮下藩五万石の殿様にそれを献上した。
その頃はというと、徳川家康が豊臣家を滅ぼして戦乱の時代を終わらせ、平和な時代が訪れていた。しかし、喜んだのも束の間、五街道整備などで幕府からの度重なる金か労働力の拠出要請に、宮下藩のような東北の小藩は苦しんでいた。
一方、その当時大きな収益をもたらす養蚕技術は、他国へ漏らしてはいけない秘中の秘とされていた。だから、上州や信州の一部の藩だけが門外不出の事業として、独占的にその恩恵にあずかっていた。当地に入植した八郎太という者がその技術をもたらしたということは、藩財政が厳しい宮下藩にとっては、まさに天の恵みだったのだ。
それからは、藩からの補助で事業が拡大されることが決まり、八郎太がその指南役となった。これまで誰も見向きもしなかった山の斜面が開墾されていった。そして、八郎太の養蚕の助手となったのが地元の子どもたちだった。山間で細々と畑を営んでいた村人たちは、子どもたちからその技術を学ぶことで、こぞって養蚕を手がけるようになり、非常に実入りのいい職を得ることができるようになったのだった。もちろん藩財政もみるみる改善していった。
八郎太には、藩から屋敷が与えられ、近所の農家の娘を嫁にとり、子を成した。そして、のちに中村姓と帯刀を許される大庄屋となったのだった。これが、中村家初代がこの地に根を下ろしたという伝承話だった。
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