敵に雷を落として倒したとか、猪の群れを敵に向け走らせたとか、敵に囲まれたときに八郎太が善衛門をかばって立つと、鉄砲の弾がひとつも当たらなかった、とか、尾ひれのついた話だけが、「噂話」として伝えられているだけなのだ。

関ヶ原の合戦で西軍が家康に敗れ、三成と共に敗走していくなかで、主の上原善衛門が笹の切り株を踏み抜いて足を痛め、行軍についていくことさえできなくなった。八郎太は主を守り通し、北陸に落ち延びさせた。山間の寒村に身を隠し、家康による三成方残党狩りを何度もうまくやり過ごした。だが、足の傷から全身に傷毒が回った善衛門は、高熱を出して寝込んでしまい、それからまもなくこの世を去った。

主を失った八郎太は、それから何度も東軍の残党狩りに見つかりそうになりながらも、かろうじて逃れ、北へ北へと落ち延びていった。そして、最終的にこの坂枝村にたどり着いたのだった。もはや八郎太は、武士として生きることを諦めていた。そして、上田姓を捨て農民八郎太としてこの土地に入植することを決意した。

最初はこの地の農家からよそ者として冷たくあしらわれた。自分で開墾した小さな畑で自給自足しながら、山の斜面のやせた土地を新たに開墾していった。そんな荒れ地で何ができるのかと皆が笑った。

八郎太が植えていたのは桑の木だった。八郎太はここにたどり着くまでいろいろなところに逗留し、身を隠し、その土地の農家の温情を受けてきた。もちろんいろいろな農作業を手伝わせてもらった。その経験の中で、荒れて、やせた土地でも桑は育つ。その葉を餌に蚕を養えば、繭玉を作らせて生糸を作ることができるということを学んでいたのだ。