【昭和30年・40年代の下町】

その店は中華屋じゃなく今のラーメン専門店的なお店で、ラーメンのスープがあっさりしていて麺も細麺で、食べたときに子供ながらに、「こっちのラーメンが好き!」と衝動的に思ったことをはっきりと覚えている。

ある日、友達と夕飯にラーメンを食べに行くことになった。お店は家から100mほどのまっすぐ車も走らない道にあったので母もOKしてくれて、よく行っていた中華屋さんのラーメン代と同じ50円を持たせてくれた。

しかし食べ終わり料金を払うときにこの店のラーメンが80円と知り、ひとまず50円を払って急いで家に戻り、足りない分を貰って払いに行ったから頭に焼き付いてしまった。

中学・高校時代の昭和40年代は、もちろんパソコンもスマホもない、アナログの時代。

6年生になると、叔母の卒業した女子の一貫校を受験する道が両親の間で決まっていて塾へ行くようになった。勉強はあまり好きではなかったが算数も国語も得意な問題が出て、何とか進学できてラッキーだった。

1年生の時には、いきなりバレー部に入る自信がなくフォークダンス部に入部した。その間、日曜日のバレー部の試合を見に行ったりして徐々に決心を固めていった。

2年になってバレー部へ入部をすると、テスト期間中以外は、朝練、授業、夕練の繰り返し、日曜日は試合のない日は練習試合と、バレー三昧だった。食欲旺盛・筋肉モリモリ、逞しい少女時代だった。

高校になると人を笑わせることが楽しくなり、休み時間はよくふざけていた。授業終わりのチャイムがなり、先生が教室を出て皆がまだ着席している時に、視力の弱いわたしはいつも一番前の席のことが多く、素早く教壇へ行き、特徴のある先生の物まねをしたり、いきなりスカートが脱げる演出をして、ジャージを折り込んで着ていて、皆がキャー!と言ったあとにホッとする顔が面白かった。

バレーボールに明け暮れる傍ら、グループサウンズに憧れて、日劇のウエスタンカーニバルや銀座や新宿のジャズ喫茶へ練習試合のない貴重な日曜日に何回か行ったこともあった。

人気が上がる前のグループの楽屋口は開いていて自由に入れた時があり、メンバーの人と握手をさせてもらえたこともあった。

もちろん、保護者同伴でないと学校の先生がパトロールをしていて退学や停学処分になってしまうので、住込みの従業員さんが成人していてロック好きだったので付き添ってもらっていた。

昭和45年3月下旬の高1の春休みに両親が大阪万国博覧会に連れて行ってくれた。

開催したばかりの春休みで、人、人、人で溢れかえっていた。アメリカ館の「月の石」など人気のパビリオンは5時間以上待ちとかで、はなから諦めてできるだけ人の少ないパビリオンに入った。