泰子さんの衣装は卒業したばかりでお金がなかったから「一番安いのでいいわ」と言って、ぱっと見て「はい、これにします」と即決しました。

「やっぱり早く結婚したかったのかな(笑)」なんて、私は心の中で思っていました。

出会いから結婚式まで恋愛している暇なんかなかったというほどのスピード婚。だから、結婚したときはお互いを全然わからなくて、だから結婚生活が新鮮だったのかもしれません。

私たちは、結婚してからが恋愛の始まりだったというわけでした。お色直しには、私は白のタキシード、彼女はサーモンピンクのドレスを身に着けました。泰子さんは、このサーモンピンクの色が好きでした。淡く優しい色が、彼女にとてもよく似合うのです。

結婚式はまるで演奏会

結婚式は、両家合同演奏会のようになりました。まず泰子さんの父親が、シューベルトの歌曲を彼女の伴奏で歌いました。泰子さんの友人のヴァイオリニスト河井裕子は、彼女のピアノ伴奏でクライスラーの『愛の喜び』を演奏してくれました。

さらに、作曲家で音楽家の私の伯父の小野衛はお琴を演奏し、私がチェロを弾いて、宮城道雄の『瀬音』を演奏しました。そして最後は、私のチェロと泰子さんのピアノ伴奏によるサンサーンスの『白鳥』で締めくくりました。

 

私たち二人とも音楽一家だったからこそできた、とても印象に残るいい結婚式になりました。実は、結婚式のシナリオもタイムテーブルも、今まで友人の結婚式を手伝っていて慣れていた私が、すべてプランを作りました。

「一夫さんは何でもできちゃうの」と泰子さんは笑って、彼女の友人たちに私のことを自慢してくれました。結婚パーティーは、六本木のコージーコーナーでしました。店内にあるピアノがその決め手でした。

ここでは、私の大学時代のオーケストラの仲間や職場の同僚、そして二人の友人たちもたくさん来てくれました。結婚式同様、出席者も演奏したり聴いたり、みんな喜び楽しんでくれていました。

来た人が楽しんでくれて、ああ来てよかったなって思ってもらえるような式にしたいと思って、総合プロデューサーの私は奔走しました。自然と人を喜ばせようとする気持ちが湧き出るのは、両親譲りかもしれません。

結婚式翌日から別居生活

結婚式の当日は、東京駅近くのホテルに泊まりました。翌日、泰子さんは六月に恩師が開く「新人演奏会」に参加するため、新幹線で実家のある福岡へいったん戻りました。私は東京に残って仕事をしなければならないので、結婚直後から私たちは別々の暮らしとなってしまいました。

 

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次回更新は10月4日(金)、18時の予定です。

 

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