三十六 さ 30

楽浪(ささなみ)の 志賀の唐崎(からさき) 幸(さき)くあれど 

大宮人の 船待ちかねつ

柿本朝臣人麻呂

訳 志賀の唐崎は、今も無事で変わらぬが、昔の大宮人の船をひたすら待ちかねている


【注】1 楽波の=琵琶湖にゆらぐ小さい波という意から湖畔の地名「志賀」「大津」「比良山」等にかけ、波に寄るから「寄る」「夜」にかけ、「大津」には天智天皇が都し給うたので「故き都」にもかけていう。枕詞

【注】2 志賀の唐崎=大津市下坂本・唐崎の辺り

【注】3 幸くあれど=「幸く」は副詞。無事に、幸福に変わりなくの意。「ど」は逆説の確定条件「……けれども」を表す接続助詞。「唐崎」の「さき」の同音で「幸く」が導かれる

【注】4 大宮人=宮廷に仕える人々。ここでは天智天皇の近江大津宮の宮廷人を指す

【注】5 待ちかねつ=「かね」は下2段活用の接尾語「かぬ」(自分の意に反してできない)の連用形。「つ」は完了の助動詞の終止形。待ちかねるのは人麻呂であると同時に唐崎である

三十七 さ 4364

防人(さきむり)に 立たむ騒きに 家の妹(いむ)が

業(な)るべきことを 言はず来(き)ぬかも

若舎人部広足(わかとねりべのひろたり)

訳 防人に出立するという慌ただしさのために、家の妻の農事の事について言わないで来てしまった


【注】1 防人(さきむり)=「さきもり」の訛なまり

【注】2 妹(いむ)が業るべきこと=「いむ」は「いも」の訛り。モがムに転じたもの。「が」は連体修飾語を作る格助詞「の」と同じ。「業るべき事」とは生業、即ち、農事を指す

【注】3 来ぬかも=中央語では「来ぬるかも」というべきところ、即ち、「ぬ」は完了の助動詞の終止形だが、「かも」は一般に活用語の連体形に接続する。「来ぬるかも」となるべきだが、字余りを避けて破格を選んだか

【注】4 茨城郡=茨城県新治(にいはり)郡、東茨城郡、西茨城郡の一部