じいじになった私

妻への一言

このようなことを考えさせられる毎日になると、家庭での存在としての父親は、脇役として妻をサポートする存在であるべきであり、その方が家庭環境としての収まり方も自然なように思う。

外の仕事は夫が担い、家庭内は妻が担うということはあまりにも定型化したことなので、考える余地もないものと思っていたが、わずかな間の主夫業で気づかされたことや勘違いしていたことが良く分かった。

大きく錯覚していたようである。自分も人の子として生まれ、両親に育てられてきた。しかも歴史的に立派に男尊女卑を至極当然とする南国で育てられた。洗い物の洗濯樽も別、物干し竿も別、風呂の順番も男が先などの完璧な男尊女卑という社会風土の中で育てられた。そのために、何でも男は先となり、女は黙って男の後に付き従う主従関係であった。

このような環境で育ったために、どれだけ女性が虐げられてきたものか。この社会風土は、女性が懸命に従順に亭主に尽くすことで成り立っていたものであり、亭主が偉かったものではない。また、このことは女性の貢献がなかったら全く成立しない家庭環境である。自分も結婚してからの風呂は先に入っていた。そして子供が産まれ家庭環境も子供中心になった頃より、親になったことで、心に変化が生じてきたように記憶している。

結婚し子供ができたら、社会的責任の下に二人して子供を育て上げるのが家庭である。このことに全く疑う余地はないが、果たして自分はどうだったのかと振り返るように考えると甚だ自信がなくなってくる。

若い頃は謙虚に男女のこと、つまり性差について考えたことはなかったが、歳を重ねてきたこともあるが、とりあえず謙虚さを持って一人で考えると、家庭にいる時間が増えたことで、男の意味や女の意味、夫婦の意味さえもなぜだか考えだした。

テレビや新聞等でもよく目にすることであるが、母親が元気に振る舞っている家庭は明るく輝いている。つまり家庭での仕切り役は、母親である女性が核になり、その方が家庭環境として確実に毎日が好転する。これは私の信念の核になっている。