リーダーアルプはスキーリゾート地で、アルペンローゼのような小さなホテルが幾つもあった。また、ここは車厳禁である為ホテルに駐車場はない。アルペンローゼのオーナーは、ドイツ系スイス人。雇用人は、キッチンで働くシェフと見習いシェフを除いては、隣国からの出稼ぎ労働者だった。

スペイン人の夫婦、ポルトガルから来た叔母さん、ユーゴスラビア人3名(ユーゴスラビアは2006年に崩壊した)、イギリス人とフランス人各1名。佳子ちゃんは主に客室掃除を担当し、私はホテル内のレストランのウェイトレスとして働いた。

スイスを発つ数日前の1975年の春、佳子ちゃんと私はイタリアのミラノまでヒッチハイクをすることにした。ヒッチハイクは、当時の若者の間でかなり頻繫に行われていた。女性二人ということで止まってくれる車も男性のヒッチハイカーより多かった。後にイギリスとアイルランドでもヒッチハイクをするのだが、幸いにも危険な目に遭うことは一度もなかった。

ブリッグからミラノまでは、イタリアとの国境の町ルガノを経由して、距離にしておよそ210キロ。確か3~4台の車を乗り継ぎミラノに4時間余りで到着したように記憶している。この旅で印象的だったのは、イタリアとの国境の町ルガノに入ったところで景色が一変したことだった。スイスの清潔かつ整理整頓された町並みは、グラフィティがいっぱいの壁に変わったのだ。

イギリスとアイルランドへ寄り道

スイスのスキーリゾートホテルで1シーズン働き、日本へ帰る航空賃が貯まった佳子ちゃんと私は、イギリスで数週間観光旅行をし、その後東京に帰る計画を立てた。

1975年の春の終わりが近づくある日、私達はチューリッヒからロンドンへの直行便に乗り込み、午後2時頃、ロンドンのガトウィック空港に到着した。空港内のイミグレーションはかなり混雑しており、私と佳子ちゃんは、別々の窓口で入国手続きをすることとなった。

私に対する検査官の質問は、滞在目的、滞在期間等通常通りで、日本まで帰る航空券を持っていた私は、すんなりと入国許可が下りた。

そこで、佳子ちゃんを待つことにしたのだが、待てども待てども佳子ちゃんが出てこない。

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