第四章 波紋
三
わたしは、『告壇』がわたしの中傷記事を書いたことを問い質(ただ)してやろうとしたが、西純さんはわたしの背後に近づいてくる人に気づいて、すっと立ち去った。
ふり返ると、ベージュの外套に陸軍の黒の軍服姿の人が立っていた。
わたしは一瞬誰だろうと思ったが、以前一度だけ会ったことがある、晴子の恋人だった。柿久(かきひさ)中尉である。涼しげな目と、きちんと引き締まった口元には見覚えがあった。柿久中尉も、錦秋県の人たちの演説を聞いていたのだろうか。
「大丈夫? なにか、因縁をつけられてたみたいだったけど」
「ありがとうございます。あのまましゃべり続けていたら、ちょっとまずいことになってたかも」
「あの男、記者なの?」
「そうなんです。『告壇』っていう週刊新聞の。……あの、城屋で働いていた女工たちがひどい目にあっていたっていう話、あれは嘘ですから」
柿久中尉はあっさり言った。
「うん。知ってる」
よかった。
柿久中尉もわたしと同じ方向に行くところだったらしく、わたしたちは自然に並んで歩き出した。
「さっきちらっと聞こえたんだけど、君はいま、星炉貴子っていう人の所で働いてるの?」
「はい」
「そこに、集井(つどい)卓(すぐる)って人が訪ねてくることはない?」
「……お名前は聞いたことありませんけど、どういう風貌の方ですか?」
「五十六歳で、背は高くない。やや太ってる。髭は剃っていて、眼鏡はかけてない。眉毛が長くて、人の顔を盗み見るような目をしてる」
「……見たことはないです」